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2016年11月30日

吹屋ふるさと村の町並みを歩きます・・「国選定重要伝統的建造物群保存地区」・・・岡山県高梁市成羽町!

吹屋ふるさと村の町並み・・「国選定重要伝統的建造物群保存地区」・・・

標高550mの山嶺に塗込造りベンガラ格子の堂々たる町屋が立ち並んでいるのは、江戸時代から明治にかけて中国筋第一の銅山町に加えて江戸後期からベンガラという特産品の生産がかさなり、鉱工業として大いに繁盛したからである 幕末から明治にかけて吹屋はむしろ「弁柄の町」として全国に知られていた・・・

赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された、見事な町並みが整然と続く吹屋の町並み、この町並みこそ、江戸末期から明治にかけ、吹屋の長者達が後世に残した最大の文化遺産です。

豪商が財にあかせて建てた豪邸は、全国各地に見ることができます。しかし、吹屋の特異な点は、個々の屋敷が豪華さを纏うのではなく、旦那衆が相談の上で石州(今の島根県)から宮大工の棟梁たちを招いて、町全体が統一されたコンセプトの下に建てられたという当時としては驚くべき先進的な思想にあります




空は曇っています・・・明るければ、弁柄色が映えることでしょうね!


郷土館へ・・



赤銅色の石州瓦・・・


う~ん? 写真上の屋根の間の下に位置する中庭の石灯籠・・・変わった形ですね!


吹屋郵便局・・・書状集箱
・・・明治四年(1871年)に使われていたと同じ形とありますね・・・ベンガラ色も鮮やかです!

叶屋・・・仲田家

弁柄窯元の一軒
二代にわたり、江戸期、天領吹屋村の庄屋を務める
表の建物は、江戸末期のものと、ある・・・


岡山県指定重要文化財・・・吹屋小学校校舎
上の写真の姿を見たかったのですが、保存解体工事中・・・残念!!

・・・平成24年3月まで現役の木造校舎として国内最古とされていた、旧吹屋小学校(県指定重要文化財)。
明治6年(1873)に開校し、同32年(1899)に吹屋尋常高等小学校と改称して、現在の場所に移転、同33年(1900)には木造平屋建の東校舎・西校舎が落成しました。

平成24年3月末まで現役最古の木造校舎として使用していました「旧吹屋小学校校舎(岡山県指定重要文化財)」については、文化財として後世に伝えていくために、今年度より保存修理工事を実施することとしております

小学校校舎からの帰り道・・・家々の瓦は石州瓦?かなぁ・・

今回は、岡山県高梁市、備中松山城、八つ墓村のロケ地、旧広兼邸、そして吹屋ふるさと村の旧片山家など、探索してまいりました・・・

高梁市は二度目でしたが、吹屋ふるさと村、弁柄は初めて、まだまだ見所はあるのですが・・・
残念ながら、今回は、これで終わります・・・

往路は、山陽道、岡山道を通り、復路は、中国道、新見ICを「カーナビ君」は指示してきました!
走行距離は、なんと、433km・・・よく、走りましたね!

まぁ、たまには、ロングドライブもいいもんです・・・ちょっと、紅葉の時期は終わっていましたが・・(^^;)

・・・・さぁ、次回はどこへいこうかなぁ?


追記:説明文は、配布案内パンフ、高梁市観光案内より一部引用いたしました








吹屋ふるさと村、銅と弁柄の里・・国重要文化財、旧片山家住宅・・岡山県高梁市!

「吹屋ふるさと村」・・ベンガラ格子の並ぶ町並み・・・
・・・右手、白壁の蔵が、・国重要文化財、旧片山家住宅です・・・


そうです、ここは「吹屋ふるさと村」の町並み・・「国選定重要伝統的建造物群保存地区」・・・

標高550mの山嶺に塗込造りベンガラ格子の堂々たる町屋が立ち並んでいるのは、江戸時代から明治にかけて中国筋第一の銅山町に加えて江戸後期からベンガラという特産品の生産がかさなり、鉱工業として大いに繁盛したからである
幕末から明治にかけて吹屋はむしろ「弁柄の町」として全国に知られていた・・・案内パンフより引用

国重要文化財・・旧片山家住宅

・・・通りに面した外観は、一階に腰高格子を飾る袖壁や繊細な出格子を配し、二階を海鼠壁で仕上げるなど、吹屋の町並の中でもひときわ意匠を凝らしたつくりとなっています

国重要文化財・・旧片山家住宅

片山家は宝暦九年(1759年)の創業以来、200年余りにわたって吹屋弁柄の製造・販売を手がけた老舗です その家屋は、弁柄屋としての店構えを残す主屋とともに弁柄製造にかかわる弁柄蔵をはじめとする付属屋が立ち並ぶ「近世弁柄家の典型型」と高く評価されています

宝永4年(1707年)にはじまったとされる吹屋の弁柄生産は、宝暦11年(1761年)頃に緑礬(ローハ)を原料とする製法が確立されて本格化しました。早くから弁柄製造を辛がけた片山家(胡屋)は、窯元として弁柄仲間の株を永く保ち、大塚・広兼・長尾家とともに苗字帯刀を許されるまでになりました。安政二年(1855年)には緑礬の製造にも乗り出して最盛期には3つの工場を経営し、その製品は建材や家具の塗料、陶磁器や漆器の顔料として国内に広く流通しました。しかし、昭和26年に緑礬の生産が途絶えると、弁柄製造は次第に衰退します。その後も合成された硫酸鉄を原料として生産が続けられましたが、片山家は昭和46年(1971年)に弁柄屋を廃業、その3年後には田村家も弁柄工場を閉鎖して、260年余りにわたり-世を風靡した吹屋弁柄はその幕を閉じました
・・・配布パンフより引用
接客の場である座敷には、銘木がふんだんに用いられるとともに、美しい電灯や見事な欄間、優れた意匠をもつ釘隠や襖のき手などにも見られます。


通り土間に面した店の間や台所などは、当時の商家のたたずまいをよく伝えています
弁柄製造工場・・

弁柄製造・・・


雑品倉庫跡・・・


片山家内を拝見していると、あちらこちらに、弁柄色が着きますので、ご注意を・・と、あります!
触ってみました・・・うん! 弁柄色でした・・m(_ _)m

そして、銘木が使われている以外の部屋は、質素な造りで、入り組んだ複雑な間取り・・・との、印象を受けました・・

では・・・共同入場券の郷土館へ、まいります・・・







2016年11月29日

広兼邸・・・吹屋ふるさと村・・岡山県高梁市成羽町!

備中松山城を訪れる折、高梁市の観光案内をググっていたら・・・吹屋ふるさと村を発見!
その案内の中に、あの映画「八つ墓村」のロケが行われた場所・・・広兼邸が・・・
その写真を見て・・おおおぉ・・・これは、行ってみなければ・・とね!


・・・・「銅と弁柄の里・・・吹屋ふるさと村」・・・・

映画「八つ墓村」・・・
・・・多治見家と八つ墓村にまつわる由来は、戦国時代にまで遡った。1566年、毛利に敗れた尼子義孝という武将が、同胞と共に8人で今の八つ墓村の地に落ち延び、村外れに住みついた。しかし落ち武者たちは、毛利からの褒賞に目の眩んだ村人たちの欺し討ちに合って惨殺される。落ち武者たちは「この恨みは末代まで祟ってやる」と呪詛を吐きながら死んでいった。このときの首謀者である村総代の庄左衛門は褒賞として莫大な山林の権利を与えられ、多治見家の財の基礎を築いた・・・Wikipediaより引用


山間を走り、「P」について、その姿を見た瞬間・・・おおぉ・・凄い!の一言!!
広兼邸です!・・・「P」の一番奥からのパチリしないと全景が入りません・・
その映画では、多治見家の屋敷として、そのロケに使用されたようです!



広兼氏は、大野呂の庄屋で、同家二代元治が享和、文化の頃、小泉銅山とローハ(ベンガラの原料)製造を営み巨大な富を築き、二階建ての母屋、土蔵三棟、楼門、長屋、石垣は文化七年(1870年)の建築で、規模、構造とも雄大な城郭を思わせる構えで今もそのままに当時の富豪を偲ばせている・・・案内パンフより引用
旧・広兼邸・・

この邸宅は昭和60年2月に前所有者広兼宮氏から岡山県が寄付を受け、その後この文化的遺産の保護を図るとともに地域文化の振興に役立てるため、岡山県郷土文化財団が協力して修復したものです
この場所も映画によく登場しましたね・・・
右端は、案内パンフでは、楼門とある・・

その上部は、不寝番部屋、その右は門番部屋・・
手前が店の間 玄関と続く・・・
店の間正面から・・・
玄関・・立派な神棚です
客間
客間、庭先、右から見る・・
奥の主人居室から一番奥の、おくどうさんまで見えますね・・
離れ座敷・・・パンフでは、大正時代の建築で、当主の結婚式に一度使用しただけとのこと・・・
離れから主屋を・・・
土蔵・・三つあります
土蔵内部展示品・・・立派な羽織、裃・・・
手前が花火筒・・・
おくどうさんの上・・・見事な梁ですね!
台所から居間、寝室、主人居室へと連なる・・・
・・・いいすね! 囲炉裏・・・

風呂・・・

火乃要慎・・・そう、火の用心です
じっくりと、豪邸を拝見しました・・・座敷などに上がれなかったのが、残念です!
坂道より「P」を・・・
柿の木・・・ええ感じですが、渋柿やね! 
・・映画に出ていたかなぁ? そうや、映画は夏だった・・(^^;)

もう一度、パチリ・・・
・・・いや、何度眺めても、この左右の広さには圧倒されます・・・



帰宅してから、早速、映画「八つ墓村」昭和52年制作を観ました・・・最後は、八つ墓のたたりなのか、この建物が焼けてしまうのです・・・

その当時、映画、ロケで使われることは、広兼邸はよかったどうかはわかりませんが、ラストシーンでの我が家が焼けるのをみて、どう思われたでしょうかね!
昭和52年映画「八つ墓村」は、主役は、萩原健一さん、金田一京助役は、なんと、渥美清さんでしたね!

渥美清さん・・・高梁市にご縁があるようで、・・・ご存じ、「寅さん」でも高梁市でロケされていましたね!

いや~! 懐かしい映画の場所、広兼邸を拝見できて、よかったです・・・(*^_^*)


追記:平成8年にもロケがおこなわれました・・・パンフより