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2015年2月7日

聖徳太子建立三太子・・中之太子、野中寺・・大阪府羽曳野市!

聖徳太子建立三太子・・・「上之太子」叡福寺は2014年11月、そして、本日、「下之太子」大聖勝軍寺・・を参拝してまいりました!

最後は、「中之太子」、野中寺を訪れます・・・大聖勝軍寺から、南へ、約9km・・25分ほどの距離です!
しかし、土曜日、なんだかんだ、混雑していますね・・(^^;)
中の太子、野中寺・・交差点の角にあり・・右折で「P」へ・・なかなか難しい・・信号待ちの折、手をあげ、対向車の間を入り・・無事、「P」へ・・・「α君」を停めました・・・
史跡 野中寺、旧伽藍跡・・・
左:案内説明板より・・
当寺の創立は蘇我大臣といい、聖徳太子建立48寺院の一つと称するところから、「上の太子」の叡福寺、将軍寺の「下の太子」に対し「中の太子と俗称せられている
又、正倉院文書によれば、当郷は百済系渡来系氏族船氏の氏寺であったことが察せられる・・
その創設年代は境内出土屋瓦から飛鳥時代にあることが考えられる

現堂宇は享保年間以後、律僧恵猛により狭山藩主北條氏を壇越として再興されたものである
その僧堂は簡素な建物であるが、めずらしい遺構である・・・
僧恵恵猛は寝屋川市太秦の秦氏の出身で、「日本高僧伝」の伝記に記されている高僧である・・

山門をくぐり、なにか、もの静かな空気感のある境内・・・その先に本堂が・・・
境内左側・・野中寺三重塔基壇跡
左:案内説明板より・・この土壇は心礎が存在することから塔跡と考えられていた。  昭和60年にこの土壇を発掘調査したところ、凝灰岩を加工した石材でつくられた「壇上積み基壇」と呼ばれる基壇が認められた。この基壇は、東西13.6m、南北12.9m、高さ約1.5mの規模を持ち、東側に階段が存在した。このことから、塔が金堂の方を向いていたことになる。
 基壇の中央に心礎を置き、その四方に12個の礎石を配しており、他の寺院の塔に見られる四天柱礎は存在しなかった。心礎は、径71cmの円孔があり、その周囲に半円形の支柱孔を三つもち、上面に亀の彫刻が認められる。円孔の内側には方形の舎利孔がある。
 塔跡の調査で「庚戌年正月」の記念名平瓦が出土しているので、650年頃には塔が設立されていたことがわかった。
正面からみる・・・野中寺三重塔基壇跡

境内右側・・・野中寺金堂跡
左:案内説明板より・・金堂跡は塔跡に対して東側に存在していた。現在残っている土壇や礎石などから開口4間、奥行き3間の南北に長い建物で、おそらく西面していたと思われる。東面していた塔跡と金堂跡とは向き合っていたいたことになる。  昭和62年に地中レーダーによる探査を行い、金堂の基壇東端と南端を確認した。 一般的に塔が西にあり金堂が東にある堂跡の配置は法隆寺に類似するが、法隆寺の場合、野中寺のように堂塔が向かい合わず、塔と金堂は南面している。堂塔が向き合う形は川原寺にみられるが、野中寺の配置とは金堂と塔が逆である。このことから、野中寺は飛鳥時代に多く用いられた四天王寺の配置方法より新しく、法隆寺より古い形態で、白鳳期の官寺に用いられていた川原寺の変形した配置方法が用いられていたと考えられる。
本堂側よりみる、野中寺金堂跡・・・
写真左下:太子堂  写真右下:弁天池
写真左下:地蔵堂   写真右下:国宝地蔵大菩薩 中之太子・・と、刻銘されているが

ヒチンジョ池西古墳石棺・・大阪府指定有形文化財
ヒチンジョ池西古墳石棺
これは人を葬るための部屋で、二上山で採れる凝灰岩を精巧に加工して、10個の石材うぃ組みあわせて作られています
内法は、長さ約2.4m・幅約1.1m・高さ約1mを測ります
この中から銅製の釘、漆の膜や木の破片が見つかっていますので、漆塗り木棺が安置されていたものと考えられます
ヒチンジョ池西古墳もこの部屋の形態から7世紀終わりから8世紀初め頃(約1300年余り前)のものと思われます
この古墳は野中寺、南西に約1km離れた場所にありました
横口式石棺は昭和21年(1946年)に発見され、野中寺に移築されました


お染・久松の墓所・・・
野中寺の墓苑には、お染・久松の墓所があると・・案内もありますので・・行ってみました

歌舞伎・浄瑠璃の演目「お染久松」の主人公
墓石の裏には、「大阪東堀天王寺屋権右衛門」とある
天王寺屋は油問屋の豪商で死んだ二人の為に、先祖供養の墓石と、お染久松の墓石をきざんで、彼等の菩提を願ったものであります・・
あまり、お墓の写真は備忘録にはと・・思いましたが・・あまりにも有名なお話なので・・・小さくm(_ _)m
近松半二作「新版歌祭文」~野崎村の段~

境内の右手に、野々上、八幡神社への案内が・・・・
Wikipediaによると・・・

南北朝時代 - 兵火により野中寺とともに焼失する
寛文年間(1661年-1673年) - 野中寺の鎮守社として再建される
1868年 - 神仏分離令により野中寺と分けられ、村社となる
一時期大津神社(羽曳野市高鷲)に合祀される
1948年 - 現在地に戻される

と、いうことで、中之太子、野中寺を参詣いたしました・・!飛鳥と云えば、飛鳥の川原寺、法隆寺、橿原の橘寺・・など、昨年訪れた寺院ですが、もう一度訪れたくなりました(*^_^*)

友人に勧められてから、4ヶ月が経過しましたが、これで、聖徳太子建立三太子・・・「上之太子」叡福寺、「中之太子」野中寺、「下之太子」の将軍寺、・・・参詣、完了です!

この大阪府、八尾、藤井寺、羽曳野、堺の歴史は奥深い・・古墳時代から江戸、明治時代まで・・侮れません・・

又々、探究心がフツフツと、湧いてきています・・・さぁ、どうするか、楽しみです・・(*^_^*)



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