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2013年9月11日

世界遺産・・奈良! 南都七大寺の旅・・興福寺!


過日の続きになります!・・世界遺産・・奈良!

奈良、南都七大寺である、興福寺、東大寺、西大寺、薬師寺、元興寺、大安寺、法隆寺のうち
興福寺、薬師寺、元興寺、・・そして、なぜか、唐招提寺を巡ります・・・・一日、四寺院です・・がんばります!!!!
そして、お会いしたい方が・・・・!
それが、平凡なおっちゃんにとって、広義で大変な備忘録を記することになろうとは・・・!

今年の極暑が終わり、いよいよ「α君」と活動の時期に突入なんです!

世界遺産・・奈良・・2013年3月7日・・法隆寺、春日大社、東大寺と訪れました
今年は各局のTV放送で、古寺名刹、百年名家、日本原風景など、昨年まで気にしなかったテレビ番組を目にし・・あっち、こっち、行きたくて、行きたくて・・うずうずしてました
以前、記しました、茅葺の里、美山も日本原風景を見てから訪れました

そんな折、奈良、興福寺・・・が、BSフジ・・古寺名刹で放映されました!
その放映を見た瞬間・・・・行かなければ、ご尊顔を・・・と!
そう・・・国宝、阿修羅像・・なんです!

阿修羅像・・・・
もちろん有名な国宝、写真等で、知ってはいましたが・・テレビ放映を見て・・・

こんな気持ちになるなんて!!

画像・・ダメかもしれませんが・・・・BSフジの放送の画面をデジカメでパチリ・・・お許しを!!

当然ですが、これから訪れる古寺名刹・・
堂内は全て、カメラ撮影禁止!!・・
どうしても、お顔を、掲載したくて・・<m(__)m>
このお顔を見つめていると、なんでしょう・・なにを見つめている眼差しなんでしょうか?

なにを語りかけておられるのでしょうか?


いつものように、伺う前に、ググって下調べ・・・いや、下調べなんかでは到底、無理・・・・
平凡なおっちゃん・・・いや、中学、高校で、日本史、真剣に勉強するんだったと、今、悔やんでいます!
もちろん、日本史の成績は「↓」です!!

興福寺は、藤原氏の氏寺・・所謂、私寺なのです!
飛鳥時代-->奈良時代-->平安時代-->鎌倉時代-->室町時代-->・・・現在
興福寺1300年・・このながい・・時の流れ・・
どのような時代で、どう動いたかを知っておかないと、語れない、書けない・・
世界遺産、奈良全体が当然その時代の流れ、渦の中にあります

情けないことに、普通の知識?・・しか、知りません・・(普通がどれくらいかは、ご容赦を!)
このようなことを、平凡なおっちゃんが記することではありませんが、・・
備忘録として、日本史再勉強として・・パンフ、Wikipedia、日本史に関する資料・・
なんでも、参考させていただき・・・記します・・ご容赦を・・<m(__)m>

まず、時代の流れを把握し・・なぜ、だれが、このような古寺を、仏教美術を、仏像を・・そう仏像といえば、如来、菩薩、明王、天の意味とは?

その時代に動き、広めた高僧の方々、そして、現存する、古寺名刹の言葉どうり、素晴らしい建造物を訪れてみたい・・国宝、重要文化財をこの目で見てみたい・・・肌で感じたいと・・・

奈良に平城京遷都が、710年・・・奈良時代の始まり・・712年、古事記ができ、720年、日本書紀ができた・・その時代です
南都七大寺は、奈良時代に平城京(南都・奈良)及びにその周辺に存在して朝廷の保護を受けた七つの大寺を指すのです
南都七大寺は、興福寺、東大寺、西大寺、薬師寺、元興寺、大安寺、法隆寺といわれております
前回、2013年3月7日、法隆寺、東大寺は訪れ、備忘録として、記しました

今回の、小旅行は、興福寺、元興寺、唐招提寺、薬師寺の四ヶ所です
唐招提寺は、南都七大寺として記されていませんが、諸説あるなかで、法隆寺は斑鳩の里なので、唐招提寺が・・ともあります

さぁ、ほんと、前置きが長くなりました・・・今回は四回に分けて記します・・なにせ写真、記事が多くなるかも・・

嫁、暑いかも・・と、ぶつぶつ言いながら、冷たいお茶、お菓子を同伴で、愛車「α君」に乗り込み・・
カーナビ君にセット・・GO!!!

第二阪和を通り、前回のように、奈良県庁の駐車場へ・・・「えぇ?」工事中、閉鎖中・・・おい!!
よかった・・隣に別の駐車場が、・・そりゃそうや!・・平日は役所の駐車場やから・・ね!

でも、穴場・・です! 平日は2時間まで、無料・・それ以上は普通に一日一回 1000円です・・!

で、その駐車場・・・登大路自動車駐車場といい、看板に発掘調査概要「遺跡名:名勝奈良公園興福寺旧境内」・・奈良県立橿原考古学研究所とあります・・掘り返されています・・はい!

前調べですし、後程記しますが、訪れる興福寺の寺領は広大で、県庁付近、奈良公園の一部は、興福寺の元寺領・・
これが、時代の流れ・・・明治維新の折、寺領召し上げとなったとのことです・

県庁前の道路の向こう南側が、興福寺なんです・・・
その興福寺は創建1300年を迎えました

興福寺自体は入館料はありません(東光堂、国宝館は有料)・・
いや、山門も、立ち寄りがたくする、塀もありません
公園の中に興福寺が、いや、本来は、興福寺の中に奈良公園があるのですよね!
まず、目に飛び込んできたのは、五重塔・・
本坊の塀の瓦


興福寺とは・・・中臣鎌足(藤原氏の開祖)は、大和国高市出身で、中大兄皇子が興した大化の改新以降に中大兄皇子の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いたのであります
そして、藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源とされ672年、山階寺(やましなでら)は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)となり、710年の平城遷都に際し、鎌足の子、藤原不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けたのである
元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は、藤原不比等亡きあとも、国家の手でも進められたとあります(Wikipedia引用あり)

そして、多くの仏像は奈良時代の仏師、渡来人仏師、将軍万福の手によるものとされ、日本仏教美術の宝庫でもあります
八部衆立像、十大弟子立像など、平凡なおっちゃんには到底、表現、記事に書けない・・です!

その中の、国宝、阿修羅像・・は、どうでしょう・・(再登場!)

国宝館内部・・静かな重々しい空気、監視員の眼が見張る中・・・(4人、いてはりました)

LEDランプに照らされ・・
その陰がまた・・なんと表現したらいいか!

離れては、拝し・・
近づいては、拝し・・・
右側から、左側から拝し・・・
何度も繰り返し、その場から動かず・・・

観光客はいますが・・・もう誰も目に入らない状態・・
阿修羅像とのゾーンだけに、入ってしまいました・・

しばし、時を忘れ、想いをめぐらしていました!

優しくも、強い眼差しで、拝する人々に、人の有り様を説くが如く、見つめているようで・・
涙が今にもあふれ、零れ落ちるがごとき・・・

ご尊顔を拝し、ありがたい時をいただきました


ここで、本来なら、1180年、平清盛の命にて平重衡が南都焼討を・・・のこと、興福寺同様、源氏側についた、東大寺も被害は甚大で大半の伽藍が焼失したことを!
近年では、NHKの大河ドラマ・・平清盛・・が、ありましたね!・・見ましたけどね?

又、江戸末期まで続いた、神仏習合・・春日大社も、藤原氏により建立されたこと・・
春日大社、興福寺の関係・・これも、勉強が必要です・・はい!、

そして、明治維新、明治4年、政府により、寺領召し上げ、、神仏分離令による、仏教弾圧の風潮に変わり廃物毀釈運動に発展しました・・何百年もかけ復興してきた寺院が破壊つくされました・・
資金難のため、仏像は売却され、五重塔さえ、売却の危機に瀕したと・・・
こうして、人々の心を救う寺院が国家の政策で崩壊していきました
しかし、明治5年の奈良の町民の復興を嘆願する声がに日新記聞に・・

「明治維新以来、歴史ある奈良の寺院の荒廃が進むが、それは、奈良の荒廃にもつながる、
歴史ある寺院を復興させ、奈良を発展させるべきである・・・・」・・TV放送引用

明治13年 再興願いが政府に受理されました
これにより、興福寺は復興への道を・・・・

この辺も受け売りですが、きちんと記さないと、興福寺の備忘録は終わりません
でも、今日はこの辺で、ご容赦ということで・・

さて、建造物ですが・・・・

まず、圧巻は国宝、五重塔・・高さ50.1m・・木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で2番目に高い建築物で、奈良時代に創建され、消失、室町時代に再興されたものです
そして、国宝、東光堂・・五重塔とともに焼け、室町時代の再建であります

様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式・・・ここで、唐招提寺が・・・・出てくるとは?
右:東光堂、国宝館 共通入場券・・・仏様がおられます故・・

この付近は外国人を含む多くの観光客が、おられますが・・・
しかし、あまり、人々が来ないような・・・そう、国宝、三重塔・・純和様建築ともあり、ひっそり、興福寺、寺領の西側に位置し、静かにお立ちです
TV放映では、興福寺で最も古い木造建築と説明がありましたが・・?


そして、その三重塔を側の坂を上がると、今、発掘中のため、フェンス越しに見えるのが・・・
国宝、北円堂・・・・
現在の建物は鎌倉時代の再建で、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物といわれています

八角円堂とは、個人の霊を祀る建物様式であるとのことで、藤原不比等を祀るために建立されたものとのことです
その側では、西僧房、小子房の発掘調査の看板が・・・僧房の礎石が見えて・・と、あります
発掘現場は人の手で、刷毛で丁寧に土を除き、・・時間と根気がいる作業で、今年の極暑は、大変だったでしょう・・
そして、中金堂平成再建工事・・平成三十年落慶予定・・あと、5年です・・伺いましょうね!

そして、最後は、重文、南円堂・・
江戸時代に再建・・・

藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建した最大の八角堂とのこと・・・

興福寺は・・・法相宗大本山・・その教えは法相教学に基づきます
その法相教学は・・・・古代インド、学僧、無著、世親が大成した唯識を根本教義としております
唯識・・あらゆるものは、唯(ただ)、わたしたちの識(心)より、変じ創り出されたものである・・!
と・・TVで!・・・(誤記、詳細はご容赦)

そして、国宝館・・・内容、あまりにも多く、素晴らしく・・・正直、知識不足で書けません・・・

仏の守護神の八部衆立像・・・
お釈迦様の弟子の十大弟子立像など・・・

金剛力士像(阿形)、金剛力士像(吽形)・・・
鎌倉時代の仏師運慶の作

この運慶・・この方はもう有名なお方・・・
運慶は、奈良市・興福寺を拠点に活動していた奈良仏師康慶の子である

そして、興福寺再興事業への参加し、興福寺の再興造像は、円派、院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する奈良仏師とが分担したとあります(Wikipedia 引用)


残念なのは、木造十二神将立像と旧山田寺仏頭が興福寺創建1300年記念「国宝 興福寺仏頭展」で東京藝術大学大学美術館へ出張中!

書かなければならないことが、ほんと、多すぎて、整理ができず、とりとめない備忘録になりました
又、次の機会に興福寺に来ましょう・・・・そうしないと解りません

消失と、再興を繰り返してきたのは、日本でも興福寺が一番多いと・・・
今、創建1300年迎え、復興を繰り返してきた興福寺・・
この1300年の時の流れを、阿修羅様含め多くの仏像がどのように見てこられたことか・・・
改めて考えさせられる「時の流れ」であり、1300年前の「時の流れ」を、感じられれば・・復興という言葉を、今にあてはめて・・・はい!

時計を見ると、なんと、2時間余り経過しました・・・いや、良き時間でした

では、次なる、南都七大寺・・・元興寺へ・・続きます・・はい!

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