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2014年5月29日

官兵衛ゆかりの佐用「三城」を巡る・・利神城!

佐用町観光協会のサイトから、発見しました・・、時を超え戦国の地へ「官兵衛ゆかりの佐用「三城」を巡る」のパンフ!

上月城、福原城と巡りました・・最後は、佐用「三城」、利神城を巡ります・・

国道373号線を北へ走ります・・河川工事が続く佐用川沿いに北上します
一応、パンフ見ていますので、山城、頂上に城跡があるのは分かっていました!
しかし、山の頂上にそれらしき、城跡が見え、そこにそびえる木・・まるで、天主みたいに見えるのです!

嫁と二人で・・・おい!・・あれやで!!・・と、いささか興奮気味!
しかし、パンフに・・利神城跡は石垣や、登山道の崩落の危険性があるため、城跡までの登城は差し控えていただいています・・と!
でも、ググっていると、最近登っている人のブログ、発見! ええのかなぁ?

今、大人気の天空の城、竹田城・・・自慢じゃないですが、20年前から3度、登城しています
ですから、今はいきません・・・その時は、草むらで、荒れ果てていましたが、最高の景色でした・・・
まぁ、ここまで、有名になろうとは・・・
ここ、利神城も石垣や、登山道が整備されれば、第2の竹田城のように、すばらしい山城と・・・期待しています!・・・整備しようとすると、莫大な費用がかかるでしょうし、費用対効果がね?

さて、暫くすると、右手に宮本武蔵、初決闘の地が・・・(横目でチラッと見ただけ・・)

その先に、目的地、「道の駅 宿場町ひらふく」に到着しました・・・
早速、「α君」を「P」し・・トイレ休憩!
ふと、みると、道の駅の売店・・今日は定休日・・・あちゃ!! まぁ、仕方無い!

「道の駅 宿場町ひらふく」から、見上げる、利神城・・・素晴らしい場所、ズームすると、石垣、見えます!
「崩落しています」との注意書きの意味、分かります
この利神城・・かっては三重の天主をもち、「雲突城」と呼ばれ江戸時代に池田輝政の播磨52万石、北の支城として輝正の甥の由之が大改修したと!
天正五年(1577年)の秀吉の上月城攻めでは、唯一戦いから免れています
福原城、上月城が落城したとき、利神城主の別所氏はなす術がなく、人質を出して、秀吉に降伏します・・その後の別所氏は消息が途絶えます
別の説は上月城の山中鹿助が攻め落としたとも伝わっていて、真偽はわからないそうです!
上月城を落とした、毛利氏が領有し、宇喜多氏が領したとの説が有力とのことです(説明パンフより引用)

私、上月城の疲労が・・続いています!・・城見れば、それでいいので、宿場町の観光はそこそこでと、気持ちが萎えています!

でも、頑張りましょう・・・「道の駅 宿場町ひらふく」から正面に見える、利神城に向かっていくと・・・
大きな提灯が・・・本陣跡とのこと!
その先の現・京橋を渡ると、その正面が、近畿の駅百選、平福駅(智頭急行)が見えました!
なにやら、趣のある、武家屋敷みたいな駅・・遠くから眺めていました・・

そして、京橋から右みれば、左岸は、河川工事もほぼ終わり? 右岸はパンフにあります、土蔵や、川座敷などの家並みが並びます
その右岸の川の淵の小道を歩きます・・・それぞれの家から川へ降りる階段があります!
この階段は船が着くための階段でしょうが・・川端の景観とあります

平成21年の台風9号の被害・・・川におられた、お爺さんに聞きました・・・
川水はここまで、上がってきて、めちゃくちゃやったと・・・ここまで、家の壁を指さし・・もの凄いことです!

国道沿いに・・陣屋門が・・・・
松平氏の時代・・領主は江戸詰めのため、代官所支配でこの陣屋門が、代官所跡地です
陣屋門は文久三年(1683年)に建てられ、佐用町の文化財です!

さぁ、帰りましょうか・・平福宿場町、もっとゆったり見物するのでしょうが・・・足、疲れています!

時を超え戦国の地へ「官兵衛ゆかりの佐用「三城」を巡る・・パンフを知り、巡ってきました!
充実した、お城巡りでした・・播磨がこんなに脚光を浴びているのも、黒田官兵衛さんのお陰かなぁ・・!

未だ未だ、城ありそうなので、ググってみましょう!・・でも、その前に山城登れる健脚にしておかなければ・・・嫁、助手席で、言っております・・・私、ただ、うなずくだけ・・

中国道、佐用ICから、帰りましょう・・・本日の「α君」の走行 254km 平均燃費 24.3L/km・・
そうそう、「カーナビ君」地図更新しなければ・・・お知らせがでています!・・は~い!!




官兵衛ゆかりの佐用「三城」を巡る・・福原城!

佐用町観光協会のサイトから、発見しました・・
時を超え戦国の地へ「官兵衛ゆかりの佐用「三城」を巡る」のパンフ!

上月城から、佐用「三城」の一つ、福原城(佐用城)を巡ります・・・

又々、「カーナビ君」を検索して、設定するも、「福原城」出てきません・・
国道373号線、国道179号線・・地図には二つの名称が・・・なんで?
ググってみると・・重複しているとある・・ややこしい!!

プリントアウトの地図、頼りに行くが、分かりません・・・この辺や?と入っても違う・・・
川、橋を目印に行くも、違う・・バックして探す・・違う・・・

諦めよう・・・っと・・思い、次なる平福方面へ走ると、なんと、突然、現れました・・小さな案内標識・・・!!
やった!!・・と、左折・・村の中を進むと・・右の福原城跡、仮駐車場の手書きの看板・・2台のみ・・
何処かの倉庫前の空き地にポール立てて・・ありがたいことです!
パンフにありました・・・福原城跡は「P」がありませんので、役場「P」をご利用下さいと・・・でも、1.5kmはあるでしょう!

運良く、「P」ができて・・農家の間を歩いていきます・・多分、ご近所は迷惑なことでしょうね!
歩きながら、パチリです

曲輪、土塁、が、判別?できます・・
背高い木々の位置が社です

左図:パンフより引用
パンフと比較しなければ、此処が城跡とはわかりません・・・
国道373号線、179号線・・地図には二つの名称 が・・

社・・城主、福原氏を祭っており、社には、合格祈願が沢山されていました
パンフから・・頭脳明晰だった城主にあやかって今でも参拝する人が多いとのことです・・・

観光案内板には、佐用城(福原城)とあります・・・
説明板より、引用・・・・元弘3年(1331年)4月28日に淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将であった名越高家を討ち取った佐用範家が建武年間(1334年-1338年)に築城した。 その後、赤松氏36人衆のうちの福原氏がこの城を継いだため、福原城とも呼ばれる

この福原城は、竹中半兵衛、黒田官兵衛が攻めた城・・三方を囲み、後ろを開けておく孫子の兵法「囲師必闋」(いしひっけつ)によって落城させたと・・!
この戦いでも、秀吉によって城兵と城内の者すべてが斬られるという凄惨な状況であったとあります

この福原城を落としたあと、上月城、攻略へと、秀吉は進みます・・・
佐用「三城」を巡る・・上月城!  http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2014/05/blog-post_6604.html

観光地として、第2の竹田城になるのか?・・・楽しみな、利神城へ・・まいりましょう!



官兵衛ゆかりの佐用「三城」を巡る・・上月城!

佐用町観光協会のサイトから、発見しました・・、時を超え戦国の地へ「官兵衛ゆかりの佐用「三城」を巡る」のパンフ!
飛龍の滝を訪れ、いよいよ、佐用「三城」を巡ります・・・

・・最初は、上月城です・・
「カーナビ君」を検索して、設定するも、「上月城」出てきません・・よみ、「こうづきじよう」・・なんでやろ?

ここも、手動で、この辺やろう・・っと、感で設定・・・国道373号線を走ると、いきなり、案内の標識が・・・左手山並み見ながら、・・うかっとすると、見過ごしそう・・・一応、Googleストリートビューで見ていますので・・

慌てて、左折・・小さいのです、案内の標識が・・・そして、道案内標識が細い道を左折しようとすると・・・

写真左は行動から一筋入ったところの案内板です!
その角に、石碑が・・明治維新志士、立石孫一郎生誕之地とあります
そして、石碑の奥には、立派な御屋敷があります・・・(写真右下)
帰ってググってみました・・・いや、好きですね・・なんでも、調べる癖がついています・・・

立石孫一郎・・・天保三年(1832年)~ 慶応二年(1866年)
幕末の尊攘派志士で、播磨国佐用郡上月村(兵庫県上月町)の大庄屋、大谷五右衛門喜道の長男として生まれる
そして、尊攘討幕を掲げて倉敷代官所および備中浅尾陣屋を襲撃したとのこと(倉敷浅尾騒動)
松山・岡山藩の追討を受けて逃亡し、頼りとした長州藩の銃撃により殺されたと・・・・

写真にあるお屋敷、現在の表札も、大谷五右衛門さん・・と、先人のブログにありました!
なにか、凄いね・・・上月城は、延元元年(1336年)、赤松氏の一族・上月景盛によって築かれたもので、その時代から、上月村(兵庫県上月町)の大庄屋?守将?だったのかなぁ?・・・

歴史資料館との間の山裾・大谷家裏手に大谷家墓所があり、宝筐印塔は貞治4年(1365)の銘文があり、石造遺品の紀年銘としては佐用郡内最古として、上月町(現・佐用町)指定文化財(昭和63年)とあります・・

大谷家の前を進むと、広場が・・・右手に「P」・・そして、上月歴史資料館、紙すき文化伝承館があります!
その砂利の「P」に「α君」を停め・・・パンフでは、上月歴史資料館 開館日/土・日・月・祝日 AM10:00~PM4:00
うん?・・今日は平日・・なんで?・・時間あれば、お寄りします・・って、そして、案内板も見ましたが、写真は後でと・・・
さぁ、登山口から登りましょう・・・・約380m? 約20分・・登山口には杖がおいてあり、勿論、嫁も、杖借りて・・・
これから私にとって過酷な登山が始まるとは・・・正直、こんな急な山道とは思いませんでした!!


丸太を切って作った階段、丸太階段の道!
勿論、地道、道幅、そう70センチ前後か?・・
一旦、踏み外せば・・恐ろしいことに!!
そして、見上げるほどの、急な地道の山道が、ジグザクに・・延々と・・・

山好きな先人はなんの苦労も無いようだが・・・
最初、堀切までは、なんとか・・・登りました!
堀切というのは、尾根筋を切った堀で、尾根づたいに攻めてくる敵を防ぐ役割の場所のこと!

ここで、ハァハァと・・息、上がっています・・ふと、眼下を見れば佐用川が見え・・おおぉ・・!
途中から、前を歩いていた、嫁、いません・・先に、登っています・・置いてきぼりにされました!

パンフにあります・・ここからが本番!・・急な斜面を上がっていきますと・・・
いや、ほんと、急な斜面なんです・・・汗、ボタボタと、息、ハァハァと、上がっています!
嫁、呼んでも、返事ありません・・・・頂上、主郭に着いていたのでしょう・・

ホント、ヘトヘト、ゼィゼィいいながら、なんとか、頂上、主郭につきました・・・
嫁・・遅いね、大丈夫?・・って、・・情けない!!
いやぁ・・こんなはずではなかったのです・・が!

頂上、主郭では、江戸時代に建てられたという、供養塔の写真も撮らず、ただ、上月合戦の案内板と、主郭跡だけ、パチリと・・・・・これが精一杯です・・(^^;)
上月合戦の内容も・・・(以後、案内板と、パンフより引用です)

上月城は、戦乱の世、東の織田、西の毛利の狭間で、半年間に2度落城した城、・・秀吉の残した文書に「播州佐用郡内に敵城三つ候」とあり・・佐用町パンフの佐用「三城」を巡る、上月城、福原城、利神城が攻撃対象だったと・・・・

一度目の落城・・秀吉は、福原城を落とし、上月城を攻めます・・城兵の首を全てはね、城内の女子ども、約200人を磔と串刺しして国境に並べるなど、凄惨な結末を迎えます
この時の上月城主の妻が黒田官兵衛の妻・光の姉だったと云われています・・姉のいる城を攻める、黒田官兵衛、心中いかに・・・!

次は、NHK大河ドラマにも出た、尼子勝久を主とする山中鹿之助が入ります
二度目の落城・・・毛利方三万の軍勢によって取り囲まれてしまいます・・

高倉山城(図、赤四角)に陣置くも膠着状態・・・
秀吉が陣を敷いた高倉山は、上月城から東へ約3kmにある・・
時を同じくして、三木城、別所長治が、毛利方へ・・そして、織田信長は、上月城救援をあきらめ、三木城攻略に集中して、孤立無援となった上月城は尼子勝久は切腹、開城となったのです!

主郭から見た、佐用川の一帯の景色の中に、三万もの毛利軍がおれば、恐ろしい光景・・だったでしょう!

木々生い茂り、あまり見えませんが・・・
闘いとはいえ、秀吉の残酷無比の所業といい、その時の黒田官兵衛は如何に・・上月城、その一帯は、壮絶な、戦乱の世を過ごしてきたのですね!
それだけ、播磨・美作・備前の三国の国境に位置する重要な山城だったんですね

頂上、主郭から降ります・・・息、未だ、整っていません・・しかし・・降りなければ!!
嫁・・スタスタ、降りて行きます・・又々、置いてきぼりです!
本来なら、下山道が別にあるらしいのですが、・・・もと来た道を戻ります

上りがきついということは、下りも急勾配・・足、ガクガクです!
写真どころではありません・・しかし、この山道を、一枚、パチリ・・見事、手ぶれです・・片手、杖を付き、片手でシャッター・・無理です!

途中で登る方とすれ違い・・完全防備、リュックなど、登山の様子・・私、スニカー、麦わら帽子、カメラ首から下げて・・・(>_<)

なんとか、無事に降りてきました・・汗、ボタボタです、滴り落ちています・・今年、初めての大汗です!

嫁曰く・・遅そ・・っと! 
そうそう、この山は、個人の所有物なので、気をつけるよう、注意書きがあります・・はい!
想像ですが、文政八年(一八二五年)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義章が250回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されているので、大谷家所有か?

資料館、閉まっているよ・・15時までみたい・・しかし、看板さえ、供養塔さえ、写真も撮ることも忘れ、へたり込んでしまいました!

ちょっと、落ち着きましたので、さぁ・・・次なる、「官兵衛ゆかりの佐用「三城」を巡る」の福原城へ、参りましょう・・・

写真左上:資料館前から仰ぎ見てパチリ  右上:道路側からですが、Googleから引用


感想:昔の人は、足腰、強いやろね・・そして、山城好きな登山家も・・・こんな急勾配の山城・・観光客のおっさんは、大変と思うのは私だけでしょうか?
しかし、嫁・・健脚です・・感服m(_ _)m

では・・次なる三城の一つ・・福原城へ・・・・・ まいりましょう!