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2026年6月3日

長野の旅、真田氏から今に伝わる上田城です そのニ、尼ヶ淵の石垣

城内から西虎口から急な階段をおりて、尼ヶ淵を歩いて石垣を眺めます


尼ヶ淵(西)

下、赤線 算木積み うめ殺しがみられる

この左側にある「上田泥流層」の案内板、尼ヶ淵の崖


上田城跡駐車場や芝生広場の一帯は、江戸時代には千曲川の分 流が流れていた川原で、尼ヶ淵と呼ばれています。この川は上 田城を守る天然の堀の役割を果たしていましたが、大水が出る と尼ヶ淵の崖を浸食することがあり、まさに諸刃の剣でした。 崖に見られる地層は三つです。上から1上田泥流層(火山が崩 壊した土砂などが堆積したもの)、一番下には3染屋層(川の作用で砂礫が堆積したもの)、そして、この二つの層の間には、火砕流に由来する粉じんが堆積しています。三つの地層の中では、2の層が一番軟らかくてもろいため、大水のたびに2の層を 中心に崖が削られてしまい、崖が崩れて櫓に被害が及ぶ心配がありました。そのため、上田藩主・松平忠愛は享保十八年(一七 三三)から石垣を築いて、崖を浸食から守りました。尼ヶ淵の石 垣のほとんどは、このように崖を守るために造られたものです。



奥に南櫓

西櫓

川と河川敷? 自然の堀ですね


〈上田城お勧め見学ルートその4>

尼ヶ淵(城の南側を守った天然の堀) ここから本丸の櫓を見上げると、その守りの堅さを実感します。江戸時代にはここを千曲川の分流が流れていたのですから、さらに防俺は強固なものになりました。崖の高さは約12メートルあり、上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくしました ところが、千曲川が増水した際に、崖を川の水が削ってしまうことから、歴代の城主はこの対応に頭を痛めまし た 崖面に築かれた石垣には算木積みの古い技法と考えられるものもあり、仙石氏の頃、あるいはそれ以前に築かれた石垣である可能性もあります そして享保17年(1732)の大水では、ついに崖が大きく崩落してしまいました< そのため城主・松平忠愛は崖を守るための石垣の築造を計画し、翌年から工事を始めました。享保21年、石垣は完成しますが、石材と石工の不足から当初の計画通りにはいかず、南橋と西橋の下を除いて、石垣は低くなったり、造られずに終わってしまいました。


奥の石垣をみると…

算木積み うめ殺し(下赤丸)
ここからが真田でここからが仙石ともいえる可能性がある

このようなうめ殺し、算木積みを数ヶ所、見つけることができます
石使いは、赤丸と赤丸の間、算木積みの間の石は安山岩
外側は緑色凝灰岩、後で付け加えたものとわかる


地形がよくわかりますね

この辺一帯が尼ヶ淵
水運、船着き場 尼ヶ淵
流れ込んできた川の流れが淵になっている 
水運、船着き場とも考えられ物資の運搬やいざというときの脱出経路として船着き場があった痕跡の可能性がある
上田城のなかでは古手の石垣でもある

上部の石垣に転用石がみられるらしい




矢穴 石を割るために掘られた穴 約10cm 


南櫓下の石垣について
南櫓下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれています。
中段石垣は、長雨により一部崩落したことから 修復工事を実施しました。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣が無かった部分であることから、原形に基づきモルタルで修復しました。

ここは尼ヶ淵(東) 本丸堀の東側の端


下赤線・算木積みのうめ殺しがみられる
線の右は安山岩の野面積み、そして玉石、千曲川から持ってきた丸い石を石垣の隙間をうめる石として使っていた
左は割石と緑色凝灰岩のできた石垣



じつはこの右に本丸堀の空堀の外側がみられるのですが、工事中のため入れません
よって、その石垣をGoogleMap ストリートビュから拝借しました

下、赤丸が石桶、排水溝
GoogleMapより



広すぎるので、2枚を合成してみました
今日のお伴のカメラにはパノラマ撮影機能がない!

上田城の石垣で使われている主な岩石
石の色の違いでも判別できるようです
1・緑色凝灰岩 
2・安山岩 江戸時代
3・玉石
千曲川から持ってきた丸い石を石垣の隙間をうめる間詰め石として使っていた

南側の防御策として真田は河岸段丘を利用
当時は崖の真下を川が流れていたので防御力が高かったと

時代がわかるのか?算木積みのはめ殺しが数カ所みることができました

真田家からはじまり、仙石家・松平家と、築城から400有余年の今、この石垣をみていると、その歴史を感じるのですが、私は上田城=真田氏が染み付いていますね

よき御城でした










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