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2014年12月3日

熊本城、第二回目・・・九州の旅・・熊本市!

前回は国指定重要文化財、櫓群と石垣、本丸御殿を拝見しました・・・そして、本丸御殿を出てみると・・・
おおぉ、観光客が、大勢きてはる・・・!
これは、皆さんと合流しないよう、はやく、天守閣に登りましょう・・・・

前回の疑問点、なぜ、熊本城が西南戦争直前に焼失したか?・・その謎を抱えながら・・入ります・・
おおぉ・・優美なお姿・・小天守と並んで、良き姿じゃ・・雲もすくなくなって、青空じゃ・・・
天守閣、見上げると・・うん?・・屋根に草が生えているね・・と、嫁と話ししながら、入場です!

現在の天守閣は、古い写真や絵地図などを基に、昭和35年(1960年)に再建されました
瓦の列や数まで細部にわたって忠実に再現されていると・・・天守閣は高さ16間2尺(約32m)、3層6階の建物で、2層の千鳥破風の上に唐破風を備えています
そして、小天守は大天守の石垣が出来上がった後に増築されたとあり、高さ9間半(約19m)で2層4階の建物です・・

天守閣と小天守の間の石垣に挟まれた入口です
写真右下:入口から右下見れば、非公開の石段が・・何処へ通ずるのか?

天守閣内展示パネルより  写真左下:宇土櫓からとある 
写真右下:城下の坪井から熊本城を一望した撮影・・茅葺きの家が手前に見えます、
写真左下:天守からみた、小天守   写真右下:天守閣前の広場、大銀杏の木が見える・・
天守閣から見た、国指定重要文化財、宇土櫓・・・その奥の櫓は、戍亥櫓・・その先に広がる広場は、二ノ丸広場・・・・
真ん中の門は、西大手門櫓門、その左側には元太鼓櫓・・左端の櫓は、未申櫓・・・そして、西南戦争の折、左端の山頂に、大砲が据えられたと・・・・
塀の内側の広場・・真ん中の門を境に、右が西出丸・・左が奉行丸
小天守から見た、天守閣・・・屋根の重なり具合、たまりませんね!
で、ゆっくりと天守閣から熊本市内を眺め、小天主へも登りました・・・

で、天守閣から降りてきたら・・・なんじゃ、火事か?・・消防隊のはしご車が・・・
で、係り員さんに尋ねると・・・・
・・・一年に一回の天守閣、小天守の屋根に生えた草取りとのこと・・・
おおぉ、そうか、やはり、草が生えているのを発見したからなぁ・・エヘン!!
以前は、職員がザイルで降りていて草をとっていたそうで・・!
消防隊の協力にて、草取りを実施しております・・

・・お客様より、草が生えている、美観が・・・とか、色々ご意見があるらしく・・・・
で、そ作業の暫く様子をみていました・・・余りにも、偶然の出来事に遭遇しましたので・・・
撮影枚数が多いため、後日、特集の備忘録を作成します・・・熊本城、消防隊出動!・・・と、題して・・・

天主閣から見えていた・・・国指定重要文化財、宇土櫓へ・・・


熊本城内に残る唯一の多層櫓で、外観は三層、内部は五階に地下を備えている。木材は、主にマツを使い、栂、楠、栗も使用している。黒光りした手斧痕の残る柱には歴史の重みがある。屋根瓦は全部で四万六千枚にも達し、その中には四百年の歳月に耐えた加藤家の桔梗紋を持つ瓦も残っている

はるかな時を過ごしてきた、床板・・・清正がこの部屋で一人静かに天下の事を夢想っていたかも・・と、説明パネルにはあります
ここで、宇土櫓が国指定重要文化財で国宝ではない理由とは?・・・・聞きました
写真左下:倒壊防止?補強のため、「×」で鉄骨?で補強されているためと・・・ふ~ん!・・残念です!
宇土櫓から見た、天守閣・・わざと、戸を入れて撮影しましたが・・・
写真右下:回廊から、入口の櫓を見る・・
一旦、頬当御門かえ出ます・・再入場は、入場券の半券を提示します・・・
写真右下:南大手門へ・・・・

南大手門櫓で開催されている、西南戦争特別展で・・・あるパネルが・・ありました・・・そのパネルから引用は一番最後にします・・・

この曲輪は(城の周りに築いた堀、石垣、塀などで構成する)細川氏入園後、奉行所が置かれたところから、奉行丸と呼ばれている
写真左下:未申櫓  写真右下:西大手門櫓門・・  

城内にもどり、数寄屋丸へ・・・
西に五階櫓、東に地蔵門を配し、梁間七間(13m)、桁行十八間(33m)・・内部一階は土間、二階は書院造りの座敷があり、全国の城郭建築ではめずらしい・・・と!
写真右下:二階御広間・・・文化的空間であり茶会、連歌の会、能などが催された・・と!
板戸・・現存するものらしい・・・

数寄屋丸の出口付近から見た・・・・
写真左下:本丸御殿の下、二様の石垣   写真右下:西櫓御門 その奥は飯田丸五階楼か?
二様の石垣・・・奥の石垣は熊本城の中でも古い年代・・傾斜が緩やかである・・
手前の石垣は急であり、少し年代がたってから継ぎ足されたことがわかる

ついにお時間です・・・全てを回ったわけではないですが、・・帰りましょう・・

入場後、見上げ、歩いてきた・・・平櫓群を・・・正面から・・
平櫓・・国指定重要文化財の田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源之進櫓です

六地蔵幢・・・
石の六角灯籠の各面の地蔵尊を彫刻したものです
人間は死後、六道を回るとされていて、その六道の辻に立って救済するために作られています・・・と!
奥に見えるのが、最初に上がってきた、東十八間櫓、北十八間櫓です
帰り道・・再び、平櫓を下から眺めます・・・・・

これで、熊本城・・・長々と、記しました・・・いや、すごい城です・・加藤清正、恐るべき!・・
加藤家が二代 44年 細川家が十一代、239年・・・・歴史に満ちあふれています・・・・
天守閣もそうですが・・・ここは、石垣から攻め込まなければ、熊本城はわかりませんね!
お城、グルッと、一周して、それから入場、登城がお薦めですね・・・そう、丸一日かかります!

・・・では、又、会う日まで・・・熊本城、復元、修復は続くそうです・・がんばれ、熊本!


追記として、・・・・展示パネルから引用いたしました・・・長文です・・
しかし、 熊本城焼失が、時代遅れの天守閣を焼き、 兵に籠城を覚悟させるため、司令長官の谷干城が命じ、参謀の児玉源太郎が火を付けた、という説が現在では有力とは、・・・残念なり・・

熊本城の石垣・・・
 江戸時代の儒学者荻生徂徠はその著書「・けん禄」享保12年(1727年)の中で「石垣ハ加藤清正ノ一流アリ。彼家ノ士ニ飯田覚兵衛。三宅角左衛門ヲ両カクトシテ石垣ノ名人ト云シモノナリ。
石垣ヲ築クニハ、幕ヲ張テ、一円ニ外人ニ見セズト云。今ハ町人ノワザトナリ、武士ハ皆其術ヲ不知。清正ノ築ケルハ大坂・尾州・肥後ノ熊本ナリ」と熊本城の石垣のことを述べています。

熊本城は明治になって、建物が次々と取り壊され、西南戦争では貴重な天守閣や本丸御殿)までも燃えてしまいましたが、石垣はほとんどが残りました。
熊本城の最大の特徴はなんと言ってもこの石垣です。
優美にして堅牢な石垣は「清正流」と呼ばれ江戸時代から名を馳せていました。

江戸時代の「甲子夜話(かっしやわ)」には「加藤清正ハ石垣ノ上手ニテ、熊本城ノ石垣ヲ見タルニ、高ケレ共、コバ井ナダラカニシテ、ノボルヘク見ユルママ、カエ上ルニ四五間ハ陟ラルルガ、石垣ノウエ頭上ニ覆ガヘリテ空見エズ」とその偉容が描かれています。
天主閣炎上・・・
西南戦争薩軍総攻撃の3日前、明治10年(1877年)2月19日午前11時頃、御天守御廊下付近から出火し、天守閣と本丸御殿一帯が 全焼しました。
原因は台所からの「失火説」、薩軍の「放火説」、鎮台(ちんだい)自ら火を付けたとする「自焼説」がありますが、時代遅れの天守閣を焼き、 兵に籠城を覚悟させるため、司令長官の谷干城が命じ、参謀の児玉源太郎が火を付けた、という説が現在では有力になりつ つあります

熊本城の築城時期・・・・
熊本城の築城時期については慶長6年(1601年)着工、慶長12年(1607年)完成という通説を採っていますが、これについては種々疑問があります。
完成は「隈本の文字の事、今度御城出来候に付御改候て熊本と御書成られ候」という文書により慶長12年にほぼ現在の城郭が完成したとみて間違いないと思われますが、着工については諸説あり、また「慶長四年八月吉日」の銘が入った瓦が出土したりもしており、着工年を確定できていません。
ただ、これだけ巨大なお城を見ていると、とても7年間で完成したとは思えず、慶長6年を更に何年か遡って考えるのが素直な気がします
小天主増築の話・・・・
清正は豊臣家が一朝有事の際、豊臣秀頼を熊本に迎え入れ、西国大名を率いて徳川に対抗する心積もりがあり、そのために熊本城という巨大要塞を築いたという説があります。 小天守は石垣の構造等から大天守成立後に増築されたことが分かります。この増築は秀頼のためだというのです。 確かに大天守の各部屋には「鉄砲の間(てっぽうのま)」「具足の間(ぐそくのま)」「矢の間」「弁当の間」「貝の間」という名前が付けられ、武器倉庫としての機能を持たされているのに対し、小天守には付書院や床が設けられ、対面所や控えの間、衣冠を整える装束の間などとして使える部屋を備えており「お成り」にも充分に耐えうる構造なのです。秀吉子飼いの清正にとって「お成り」とは秀頼以外に考えられません。更には小天守地下1階には井戸やかまども設けられ、籠城という最悪の事態まで睨んだ増築といえるのではないでしょうか・・・と!








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