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2014年12月29日

黒田城址、姥が懐・・・兵庫県西脇市!

「黒田官兵衛の里・西脇市」・・新たな生誕地・発祥地説、そのゆかりの地をめぐっています!

多田城址を訪ねました・・・そこから東を見ると、そこに黒田城址・・そして天狗山へと続きます
その黒田城・・・今回はちょっと、訳ありで、登っていません・・・m(_ _)m


天狗山」の尾根から西へ連なる黒田城址・・・(左図参照)
尾根伝いに不明瞭な曲輪・土橋のようなものも残っていますが、城との関係は不明と・・・
写真右上:赤丸部分は黒田城址・・木々伐採して、黒田集落を一望できるよう、しているようですね!

黒田城址・・・中世・戦国時代に築かれた山城で、黒田氏九代の居城
現在、稲荷神社がある(上記写真右上赤丸部分)比高約40mの半独立山上に城があったと考えられますが、全体の城郭は不明。帯曲輪、堅堀、堀底道ともみえる遺構があるが、実態はよくわかっていないと・・・

その麓に「姥が懐」があります
「播磨古事」に記載された伝承によると、多田城(構居)に付随する邸宅跡と伝わっています 城山と黒田城下を流れる川に囲まれた田畑周辺が「姥が懐」と記されております
その麓に「姥が懐」があります
ちゃんと、「P」が用意されています・・・幟が歓迎してくれています
木々伐採して、道を作り、「リキ」入っていますね・・・西脇市!
黒田官兵衛生誕地の石碑が建てられています・
写真左下:この案内説明文が、興味深いです・・・引用しております
西側、この場所より北谷川ガードレールに囲まれた田畑の字名が「姥が懐」と残り、天明七年(1784年)姫路小寺家菩提寺心光寺の古記録閲覧・・・その中に小寺官兵衛祐隆 氏改め黒田 入道して如水という、播磨の国多可郡黒田村の産なり。
心光寺和尚入誉と黒田藩中村平市が黒田村現地調査に訪れ、黒田村古老から多くを聞き取りと現地案内を受け、その記録が「播磨古事」で福岡市博物館に蔵書としてあると


その内容は、黒田城壊滅から二百数十年をへてすべて田畑に変わるも、黒田村の古事について尋ねる問いに答えて云、此多可郡黒田村の多田の古城と申す八、今の筑前国主のご先祖の城址にて、姥が懐という八、其比の邸宅の古城にて、畑の字に残れり。と記述しております
黒田官兵衛は屋敷があったこの地で生まれたと思われます・・・案内説明板より引用


写真左下:石碑への途中より、姥が懐、黒田集落をみる
西側、この場所より北谷川ガードレールに囲まれた田畑の字名が「姥が懐」
写真左下:黒田官兵衛生誕地の石碑付近から、田畑を・・
写真右下:ガードレール付近より、黒田官兵衛生誕地の石碑方面をみる・・幟が陣のようにも見えますね!
黒田氏は二百数十年にわたり存続しましたが、九代治隆の時代、元亀の頃(1570年はじめ)丹波の赤井五郎・川向かい石原城の石原掃部助連合軍の突然の襲撃に敗れ、黒田城は滅亡したと
その頃、弟、孝隆はそれより早く姫路城主、小寺美濃守職隆の猶子(養子)となっており・・

うん?・・つじつまが合わない・・松ヶ瀬・・多田城落城の際、幼い官兵衛が母と逃げた・・の記述!
松ヶ瀬の伝承が、違っているのでしょうか?

まぁまぁ、その辺が、伝承、歴史なんでしょうね!

「P」にあった、風鈴?の販売・・
いや、商魂たくましいです!

さぁ、最後の新たな生誕地・発祥地説、そのゆかりの地・・荘厳寺へ、参りましょう!



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