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2025年12月13日

秋の旅行 広島県福山市・新規築城では最後といわれている福山城です

秋の旅行、最後の目的地 福山城です

下写真、どこでしょう?
ここは、お城から見える、山陽新幹線・福山駅です
以前、九州へ旅する際、車中から見えたのには驚き、機会があればぜひと思っていました
念願が叶いましたね


福山城は、築城時に伏見城から移築された櫓、伏見櫓(重要文化財)や筋鉄御門(重要文化財)、鐘櫓などの移築・現存する建造物があります

福山城の歴史と特徴
築城は江戸時代初期 1622年(元和八年)、水野勝成が築城
役割は 西国大名(毛利、黒田など)への備え(西国鎮衛の要衝)として、厳重な構えを持つ。
天守: 南側は白壁、北側は鉄板で覆われた「ふたつの顔」を持つ特徴的なデザイン。
北側の鉄板は、山並みが迫る防備上の弱点を補強するため・・今回、見るのを失念してしまった

元和偃武の後に建造された近世城郭で最も新しい城である(厳密には赤穂城や松前城など福山城より後に築かれたものもあるが、慶長期から続く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後としてよいだろう・・福山市観光案内より


筋鉄御門から入ります

国重要文化財 筋鉄御門
国重要文化財 筋鉄御門

筋鉄御門は本丸へ入る正門である。 門柱には欅の太い柱を用い、脇戸を設け、門扉には十数 条の筋鉄が打ちつけられている。 外観は伏見櫓と同様に柱形や長押を漆喰で塗り出し、万枚は 無く、窓は素木である。 狭間は設けていないが、窓の格子を三角形にすることで射撃の効率を 図っている。 屋根瓦には水野家の家紋である「立ち沢瀉」 が使用されている。 内部は門の上部を一段高くとり床張りとし、その左右は土間となる。
1873年(明治6年)の廃城令での取り壊しを免れ、1933年(昭和8年)に伏見櫓と御湯殿 とともに旧国宝に指定された。
伏見櫓や鐘櫓とともに1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲を免れ、国の重要文化財となり1951年(昭和26年)から解体修理が行われた。
その際に、多くの材が交換されてはいるが、当初材を多く残しており、これらは別の建物から 再利用された転用材が含まれることが分かった。 転用の柱は、西面南側窓に外部からも確認で きる。



狭間は設けてなく、窓の格子を三角形にすることで射撃の効率を図っている



鐘櫓


  鐘櫓
鐘櫓
(阿部家藩主時代の名称:鐘搗堂)
福山市重要文化財

福山城を描く最古の絵図である 「正保城絵図」には描かれていないものの、水野家時代後期
の絵図では 「釣鐘」と書いているのが確認出来る。 阿部家時代の絵図 (元文年間絵図)では、
上階の屋根を檜皮葺か柿葺で描いている。
城内に独立した鐘楼を設ける例はいくつかあるが、 多聞櫓(阿部家藩主時代の名称:渡櫓) この動線上に設けられた櫓としては全国でも珍しい。 西側の棟は火灯櫓 (阿部家藩主時代の名称 :内九番二重御櫓) へ続く多聞櫓の一部である。
江戸時代には太鼓も常備されており、半時 (約一時間) の太鼓を打ったと「福山領分語伝記」・は書き、 「佐原家文書」では「鐘太鼓櫓」とも書いている。
1873年(明治6年)の廃城では取り壊されず残され、1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲にも焼失を免れた。
内部は時鐘番 (鐘搗き番) の住居として改変されていた。 その後、 荒廃が進み 1979年(昭
和54年)に修理され、銅板葺きに改められて福山市の重要文化財に指定された。
現在、鐘搗きは自動化され午前6時・正午 午後6時・午後10時の時を告げている。



国重要文化財 伏見櫓



(阿部家藩主時代の名称: 内拾番三重御櫓)
伏見櫓は福山城本丸南西に位置する三重櫓で、江戸時代には武器庫として使用されていた。
築城時に伏見城から移築された櫓の一つである。
外観で特徴的なのは、 柱形や長押を漆喰で塗り出す、 真壁造と呼ばれる一階と二階の外壁の意匠である。 その意匠は古式と評されることが多いが、 その実例は極めて少ない。 同じく伏見城から移築されたと伝わる月見櫓は大壁造であり、伏見櫓は別格であったことがうかがえる。
1873年(明治6年) の廃城令での取り壊しを免れ、 1933年 (昭和8年)に筋鉄御門と御湯 殿とともに旧国宝に指定された。筋鉄御門や鐘櫓とともに、 1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲を免れ、現在は国の重要文化財である。
1951年(昭和26年)から行われた修理の際、二階の梁から「松ノ丸ノ東やく(ら)」の刻字 が見つかり、伏見城からの移築であることが立証された。伏見城から移築された伝承を持つ建物はあるが、文献や刻字によって立証される全国唯一の現存建物であり、 日本城郭史においても 極めて重要で貴重な存在である。



左から、筋鉄御門・伏見櫓・鐘櫓の揃い踏み?の一枚

この広場は伏見御殿跡
伏見御殿は伏見城から一部移築したようです

人影少なく、のんびりした空気感が漂っていますね
しかし、立派な天守閣ですね

福山城天守

層塔型・複合式天守(高さ:およそ33.7m)
五重五階地下一階の天守・・じつに美しい!

天守が五層というのは当時の最高格式のもので、福山藩は十万石の格式なのに、五十万から百万石級レベルを造ったようです

やっぱり! 立派なという意味は大当たり!


福山城天守は、近世城郭における天守建築が技術的に最も発展した時期の天守である。
五重五階地下一階の天守は、一階を九間× 八間(およそ20m×18m) とし、五階の平面である五間×四間 (およそ10m×9m) の身舎を中心に、各階の廊下が上階へ向け規則正しく減っていく層塔型天守に分類される。 地階は天守台穴蔵の上部に窓を設ける半地下とし、初重の窓は2段となり徳川大坂城天守や二条城天守とも共通する。
また天守の付属施設として、東側に二重三階の「付櫓」を設け、南側には入口となる「付庇」 を設ける複合式天守である。
一部の破風には珍しい六角形の銃眼 (狭間) があり、内部の二階以上に床の間を設け、最上
階には上段や火灯窓、廻縁を設ける。
外観で何より特徴的なのは、他に例を見ない北側壁面の鉄板張りである。
理由は北側の防備を強化するためと考えられる。
鉄板が張られた天守は、現在、福山城博物館として、刀や甲冑、美術工芸品など宝物を展示し、福山城の歴史や歴代藩主の事績を紹介している。また、最上階からは、福山の市街地を一望することが できる。


入口の家紋
水野勝成の家紋 「水野沢瀉」
降りて行きます

天守 南西面

西面と石垣

右の建物は、ふくやま美術館

慶長期から続く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後の城
伏見城から移築された伝承を持つ建物はあるが、文献や刻字によって立証される全国唯一の現存建物であり、 日本城郭史においても 極めて重要で貴重な存在である・・と、ありなかなか興味深いものです
内部公開があれば、拝見したいものです


数年前、九州行きの際、新幹線の車内からみて、ここに城がと・・知識の無さが露呈!
で、今回はどうしてもみておきたかったのですが、帰路、午後3時ごろ、陽は西に傾きかけ、急ぎ城内を見て回りました
特別展示が開催されていましたが、これもパス
時間の関係で天守には入らず、外観を眺めるだけでしたが、大満足でした


追記:秋の旅行 走行距離825km 長距離走行でしたが、よき旅でした!













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