名古屋城、絢爛豪華な本丸御殿を堪能いたしました
それでも見所満載のお城、本丸です
特別史跡 名古屋城
名古屋城は、徳川家康の命により主に西日本の大名20家を動員した公儀普請によって1610年(慶長15)に着工されました。金鯱を持つ巨大天守や絢爛豪華な御殿がある本丸を中心に、二之丸·西之丸·御深井丸の他、大手馬出·搦手馬出·塩蔵構が置かれ、さらに外側を三之丸で防御した国内屈指の名城です。1615年(慶長20)以降、約260年間にわたり尾張藩61万500石の政庁、家康の9男義直を初代とする尾張徳川家16代の居館として機能しました。
1871年(明治4)の廃藩置県後は陸軍省の所管となり、城内に陸軍施設が建てられたものの、天守·本丸御殿などの主要な建造物は日本城郭の見本として姫路城とともに保存されました。1891年(明治24)の濃尾地震の被害復旧後、本丸·西之丸·御深井丸は1893年(明治26)に宮内省所管の名古屋離宮となりました。
1930年(昭和5)に名古屋離宮は廃止となり、名古屋城の本丸などは名古屋市に移管された後、1931年(昭和6)に一般公開されました。天守·本丸御殿など24棟は1930年(昭和5)に城郭建造物として初の国宝(旧国宝)に指定された他、城跡は1932年(昭和7)には国の史跡、1952年(昭和27)には特別史跡に指定されています。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)5月14日に行われた名古屋空襲で、天守·本丸御殿などの国宝建造物20棟が焼失する甚大な被害を受けましたが、1959年(昭和34)に天守閣·小天守閣·正門が外観復元され、2018年(平成30)には本丸御殿が木造復元されました。
正門(旧江戸城蓮池門) 1911年(明治44)移設/1959年(昭和34)外観復元
正門(旧江戸城蓮池門)
1911年(明治44)移設/1959年(昭和34)外観復元
現在の正門の位置には、榎多門という名の門がありました。明治維新以降に一之門、二之門
が次々と撤去され、1911年(明治44)に名古屋離宮の正門として旧江戸城蓮池門が桝形の
石垣を広げて移設されました。1945年(昭和20)の空襲で焼失しましたが、1959年(昭和34)
に鉄筋コンクリート造で外観復元されました。
西の丸から本丸へ向かいます
重要文化財 西南隅櫓(本丸未申櫓)
1612年(慶長17)頃完成/1923年(大正12)復興修理
二重三階櫓 高さ約14.1m
西之丸から本丸へ侵入する敵を迎え撃つ位置にあり、江戸時代中期まで歴代城主の甲冑も保管していました。一階に屋根がないため二階建てに見えますが、内部は三階建てです。
二階西面と南面には入母屋造りの屋根を載せた出窓があり、その床下に石落し(下方の敵を鉄砲で撃つ開閉式のすき間)を設けています。二階南面の屋根に格式の高い軒唐破風(軒先を丸くそり上がらせた屋根飾り)を重ねています。1921年(大正10)に石垣が崩れて倒壊しますが、その後、宮内省により修復されたため、丸瓦には徳川家の葵紋ではなく天皇家の菊紋がかたどられています。
望遠がないため、トリミングしてみました
・宮内省により修復されたため、丸瓦には徳川家の葵紋ではなく天皇家の菊紋がかたどられています。
堀、眺めれば、「鹿」がいた!
うん? 野生か? それとも雑草処理班?
わかりましたよ!
・名古屋城の内堀(西南隅櫓側)には、2頭の鹿が生息しています。
名前は「もみじちゃん」と「やまむらちゃん」・・と、説明を発見!
貴重な一枚になりました
貴重な一枚になりました
さぁ、本丸です
本丸御殿は、前の記事で記しました
「名古屋城 本丸御殿」 ← こちらからどうぞ!
天守と同じ1612年(慶長17)頃に完成し、当時のまま現存する3つの隅櫓のうちのひとつです。櫓とは、戦時は見張りや防御の施設であり、名古屋城では平時に主に倉庫として使用され
天守閣と小天守
大きすね!
重要文化財 東南隅櫓(本丸辰巳櫓)
1612年(慶長17)頃完成・二重三階櫓 高さ約13.9m
1612年(慶長17)頃完成・二重三階櫓 高さ約13.9m
天守と同じ1612年(慶長17)頃に完成し、当時のまま現存する3つの隅櫓のうちのひとつです。櫓とは、戦時は見張りや防御の施設であり、名古屋城では平時に主に倉庫として使用され
ました。東南隅櫓は、本丸の東南角の位置で二之丸に面して建ち、二之丸に侵入した敵から城で最も重要な本丸を守る役割を担いました。西南隅櫓と同じく他の城の三重天守並みの
規模があります。一階に屋根がないため二階建てに見えますが、内部は三階建てで、非常に珍しい形式です。屋根上の銅鯱は、1910年(明治43)に旧江戸城から移設されました。
天守閣と小天守
大きすね!
天守、延べ床面積 日本史上最大
二ノ丸広場に行ってみます
二ノ丸広場に行ってみます
清正石
横幅6×高さ2.5メートルの名古屋城の石垣で最大の石です。石垣づくりの名手とされる加藤
清正が巨大な石を運んだという伝承があったため、名古屋城が一般公開された1931年(昭和6)以降に「清正石」と名付けられました。
ただ、石垣工事では大名家ごとに持ち場が割り当てられており、この場所の石垣を実際に
築いたのは黒田長政です。
石垣といえば、矢穴
石在を割る際のクサビの跡
石在を割る際のクサビの跡
慶長時代(1610)はその幅は広く、宝暦(1752-1756)になれば技術も進歩して狭い
これみれば、石垣の時代がわかるらしい
これみれば、石垣の時代がわかるらしい
本丸東一之門跡 1612年(慶長17)頃完成/1945年(昭和20)焼失
以前は二之丸の東側にあった東鉄門の二之門(外門)です。
1963年(昭和38)、二之丸に旧愛知県体育館が建設されることになり解体されましたが、保存されていた部材をそのまま使い、1972年(昭和47)に、本丸東門の二之門(戦災焼失)が
あった現在地に移築再建されました。門柱や扉に飾りとして筋状の鉄板が打ちつけられています。この場所にあった本丸東門は、櫓門である一之門と、高麗門である二之門との二重
構えの門で囲む形門を構成していましたが、いずれも空襲で焼失しました。
重要文化財 旧二之丸東二之門
1612年(慶長17)頃完成/ 1972年(昭和47)移築再建 高麗門形式
以前は二之丸の東側にあった東鉄門の二之門 (外門)です。 1963年(昭和38)、 二之丸に旧愛知県体育館が建設される ことになり解体されましたが、 保存されていた部材をそのまま 使い、1972年(昭和47) に、 本丸東門の二之門 (戦災焼失)が あった現在地に移築再建されました。 門柱や扉に飾りとして筋状の鉄板が打ちつけられています。 この場所にあった本丸
東門は、櫓門である一之門と、 高麗門である二之門との二重構えの門で囲む桝形門を構成していましたが、いずれも空襲で 焼失しました。
左:清正石 枡形虎口
天守·金鯱
1612年(慶長17)完成/1959年(昭和34)外観復元
外観五重·地下一階 建築高36.1m·総高(石垣含む)55.6m
二代目金鯱総高 北鯱(雄)2.621m·南鯱(雌)2.579m
二代目金鯱総高 北鯱(雄)2.621m·南鯱(雌)2.579m
大天守は地上五階地下一階建てで、史上最大の延床面積を持ち、上質な木曽檜が使われていました。破風(三角や弓形の屋根飾り)は国内の城で最多の22を数えます。金鯱は北側が
雄、南側が雌と言われ、大きさとデザインが異なります。鯱は頭が龍、胴が魚という空想の生物で、火災を防ぐ守り神として飾られました。創建時の金鯱には慶長大判1,940枚、重さ215.3キログラムの金が使われていました。天守·金鯱は1945年(昭和20)5月14日の空襲で焼失しましたが、1959年(昭和34)に鉄骨鉄筋コンクリート造で外観が復元されました。
重要な天守台の石垣は、城づくりの名人とされた加藤清正が担当したとあります
金の鯱鉾
この鯱鉾は本当の金で、戦前、盗人がいて、鱗も剥がして持ち逃げしたと!
空襲の火災で金が溶け落ちたのだが、大半は米軍が持って帰ったらしい
一部、名古屋市職員が確保してあったと、TV放送で説明がありましたね
金の鯱鉾を調べてみました・Aiによれば
金の鯱鉾の素材と量
初代と再建された鯱鉾
金価格によって変動しますが、製造コストも含めると、数十億と放送ではいわれてました
下、石垣の赤い部分は、空襲の火災の折、焼けた石と・・
天守閣北、御深井丸に行きます
金の鯱鉾を調べてみました・Aiによれば
金の鯱鉾の素材と量
素材:18金(純度75%)の金板
総重量:雌雄合わせて約88kg
純金換算:約66kg
初代と再建された鯱鉾
初代:慶長大判約1,940枚分(純金換算で約220kg相当)が使われたと
再建:1959年(昭和34年)に大阪造幣局の協力で復元され、現在のものが使われています
金価格によって変動しますが、製造コストも含めると、数十億と放送ではいわれてました
石垣の石には様々な印が刻まれています。「刻印」「刻紋」と呼ばれ、石垣を築いた諸大名が自分の運んだ石に刻んだ印とされます。藩同士の石の所有を巡るトラブル防止の意図があったと推察されます
刻印を探すのも楽しかったです
刻印を探すのも楽しかったです
下、石垣の赤い部分は、空襲の火災の折、焼けた石と・・
天守閣北、御深井丸に行きます
御殿椿
かつて本丸御殿の南庭には「大城冠」という品種の椿の古木がありました。1945年(昭和20)の空襲で本丸御殿とともに失われたかに思われましたが、焼けた幹から新たに伸びた芽を育てて、不明門内に植えました。成長した椿は、例年3月中旬~4月上旬に八重咲き大輪の白い花をつけ、今も城内を彩っています。
不明門・1612年(慶長17)頃完成/1978年(昭和53)復元
本丸と御深井丸をつなぐ門で、常に鍵がかけられていたため「あかずの門」と呼ばれ、本丸の
非常口としての役割を担っていました。土塀外側の屋根に槍の穂先を並べて侵入を防ぐ工夫が
こらされています。1945年(昭和20)の空襲で焼失し、1978年(昭和53)に復元されました。
名古屋城の石垣は、築城から現在まで何度か積み直しが行われてきました。江戸時代の代表的な修復は、宝暦の大改修時の天守を引き上げて行った積み直しです。ただし、記録が少なく不明な点も多くあります。1970年(昭和45)の崩落をきっかけに、その後継続的な石垣の修復整備が行われています。
天守礎石
昭和二十年(一九四五)に焼失し 旧国宝天守の礎石。地階穴 蔵の地盤の上に置かれており、 巨大な天守を支えていた。長く 焼け跡に残っていたが、天守閣 再建にあたり現在地に移し、か つての穀設状況を再現した。
天守の石垣
天守の石垣は、上部が外側に そりだすいわゆる扇勾配であ り、石の重みや土の圧力がたく みに分散されるため、はらみに くく、しかも美しい。
北西からの姿
剣塀
大天守と小天守を連結する櫓 台は、高い土塀で囲われ、塀の 軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと 並べられている。大天守への敵の 侵入を防ぐもので、剣塀と称 されている。
鵜の首
鵜の首とは、握を内側に入れこ み道幅を狭くした部分、本丸 の周囲には、大手・搦手など 五か所に鶴の首があり、本丸へ の敵の侵入をはばんでいた。
南西からの姿
六番御蔵
六番御蔵は、1834年(天保5)に建てられた米蔵です。発掘調査により、柱の下にある礎石
の配置が分かりました。また、蔵の東辺と南辺の一部には、礎石と礎石の間に、四角錐状の石
(間知石)を地覆石(地面に接する部分に置かれる石)として使用していることが確認できました。礎石や地覆石が見つかったことにより、建物の位置や規模(南北38.6m、東西8.0m)
が推定できます。
発掘調査で見つかった蔵の跡は土で保護し、その上に礎石や地覆石を模した石材を並べて
再現しています。
諸輪の松
名古屋城には、諸輪村(現在の愛知県東郷町)から2度贈られた松の逸話が伝えられています。 築城時の1615年(慶長20) に、 惣御土居(現在の三之丸外堀)に植えられた記録が残っています。 その後、寿命や 台風などで減少しましたが、1962年(昭和37)、再建された名古屋城のために再び諸輪地区から寄贈 されました。
大阪城、姫路城と何度も見てきましたが、尾張名古屋は城で持つの言葉どうり、お見事です
開門と同時と入城しましたから、ゆっくり周れましたが、外国人の団体はやはり多かったです
次は西の丸御蔵城宝館へまいります
追記:記事中文言に名古屋城案内から引用いたしております
追記:記事中文言に名古屋城案内から引用いたしております









































0 件のコメント:
コメントを投稿