織田信長の天下取りの出発点である清洲城です
清須市 市政20周年 とありますね
入城しましょう
入場券の裏面の説明によれば・・
◆清洲城天主閣
清須市の郷土の英傑·織田信長公の天下取りの出発点であり、戦国の世を終結させ、天下平定を目指す武将が重要拠点としていた清須城。平成元年に現在の場所に「清洲城天主閣」として再建整備されました。
◆「天主」と「きよす」の表記について◆
「天主閣」の表記に関しては、現在通常使われる「天守閣」の語源にさまざまな説があり、「殿主」「殿守」「天主」などの表記が確認されています。信長公の事績を記した「信長公記」に「天主」と表記されていることから、再建にあたり「天主閣」の字をあてることにしました。また、この城の名や地名は、歴史的には長く「清須」の字があてられており、明確な基準が存在しなかったころには同時代の古文書でも「清須」「清洲」が併行して使用されている例があります。
当館では、展示上の混乱を避けるため、展示要素に関する表記は、下記の基準に基づいて解説いたしております。
●慶長15年(1610)の「清須越」以前に登場する地名、施設としての名称は「清須」「清須城」「天守閣」と表記。
●「清須越」以降から平成17年(2005)清須市誕生以前の宿名、村名、町名は「清洲」と表記。
●当施設の名称として使用する場合「清洲城」「天主閣」と表記。
定番? なかなか良き構図でパチリできました
配布パンフレットより、全文引用
尾張の首府が甦る “歴史織りなす清須のお城”
室町時代応永12年(1405)、尾張国の守護職であった斯波義重が、守護所であった下津城(稲沢市)の別郭として建てられたのが清須城の始まりといわれています。
文明8年(1476)戦乱により下津城が焼失した後の、文明10年(1478)守護所が清須に移転することで、清須が尾張国の中心地となります。京や鎌倉に連絡する 往還と伊勢街道が合流する交通の要衝でもあり、尾張の政治·経済·司法の中心地 として繁栄を迎えます。
弘冶元年(1555)に織田信長公が那古野城から入城、尾張を統一掌握したころ の清須城の基本構造は、守護の館と同じだったと考えられています。永禄3年(1560) の桶狭間の戦いに勝利した信長公は、ここ清須から天下統一への第一歩を踏み 出しました。
天下統一へ突き進む途上、本能寺の変で斃れた信長公の跡目を決める清須会議 の後、城主となった次男、信雄によって改修された清須城の城郭は、天守を備え東西 1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域の中に城下町のあらゆる機能を備えた 城塞都市として過去最大の規模に達します。
その後城主は、織田家から豊臣秀次(関白)、福島正則(秀吉子飼の大名)と移り、 天下分け目の関ケ原の戦いでは、東軍の最前線の城として重要な軍事拠点となります。 関ケ原以後、城の主は松平忠吉(家康四男)、徳川義直(家康九男)と変遷しますが、 この頃の清須城下は、人口6万人を数える賑わいを見せ、朝鮮通信使の記録にも「関東 の巨鎮」と称され、また、清須城は「天下の名城」と讃えられました。
慶長15年(1610)徳川家康は、清須城廃城と名古屋城築城を命じ、町の建物、 町の機能全てが移転する「清須越」が行われました。これより尾張の政治·経済· 司法の中心は清須から名古屋へ移り、清須城とともにその城下町は歴史から姿を 消し去りました。なお、名古屋城築城に際し取り壊した清須城の資材が再利用され、 特に名古屋城御深井丸の西北隅櫓は、「清須(洲)櫓」とも呼ばれ清須城天守の古材でつくられたといわれます。
平成元年(1989)、四百年近くの年月を経て歴史ある城が「清洲城」として天主閣 をはじめ、芸能文化館、清洲城広場などをしたがえ地域のシンボル、平成のお城として甦りました。
◆「天主」と「きよす」の表記について◆
●慶長15年(1610)の「清須越」以前に登場する地名、施設としての名称は「清須」「清須城」「天守閣」と表記。
●「清須越」以降から平成17年(2005)清須市誕生以前の宿名、村名、町名は「清洲」と表記 ●当施設の名称として使用する場合「清洲城」「天主閣」と表記。
天主閣内部
信長公の清須城下
このイラストは信長公が居城した時代の清須城とその城郭域を想像して描いたものです。信長公時代の清須城がどの位置にあったのか、正確なことはわかっていませんが、当地もしくは、五条川対岸の清洲城公園に主郭に相当する規模の建造物があったのではないかと考えられています。
信長公時代の清須城は、中世の守護の館の造りを踏襲したものであったと考えられています。館の周りには地形を利用して堀や土塁、土塀が巡らされ、屋敷の要所には監視用の櫓が建てられていたようです。このイラストは中世の守護の館や当時の主郭域と推定される場所の地形などを参考に、信長公時代の清須城を想像して描きました。
五条川と堀の関係がよくわかります
石落としの実演?
戦国中スポ 「桶狭間で大勝利」
イイね、こういうの、大好き!
清須市 市政20周年
天主よりの眺望・名古屋市方面?
この景色は濃尾平野が広大な平野であることが、少しですがわかりますね
この地域は木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)が流れ、豊かな水資源を背景に稲作や工業が盛んな平野で、名古屋市は「中京工業地帯」の中心として発展しています。
西?
北?
鯱鉾
なんで、金箔瓦?
大手門前より
信長塀
永禄三年(一五六〇)織田信長 公が桶狭間へ出陣の途中熱田 神宮に戦勝を祈願し、大勝し たのでそのお礼に奉納された 塀をモデルにしたものです。
大手門
大手橋をわたります
清洲城の石垣
清洲城は、応永年間(千四百年頃)に、尾張守護職であった斯波義重により守護所下津城(現稲沢市)の別郭として築城されたといわれている
その後、文明八年(一四七六)守護 清洲に移されると、津島などとともに尾張有数の都市として繁栄した
その後、織田信長、織田信雄と城主をかえ、徳川家康の命により慶長十五年(一六一〇)「清洲越」が始まり、城下の住民や石垣、建物等の大部分が名古屋城に移され清洲城は廃城とあなる。
復元された本石垣は、平成八年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清洲公園前の五条川右岸(現地は下流二〇〇米に銘板 標示)で発見されたもので、清洲越直前の本丸南側の石垣と考えられる
石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている
石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている
平成十三年三月・愛知県教育委員会 清洲町・愛知県河川工事事務所
石垣を築く位置に溝を掘り、縦方向の枕木を約0.9m(半間)間隔で設置します。胴木の中央
には2ヶ所腈が切られ、この上に検方向の胴木を置き梯子状に組んでいきます。枕木と胴木の間には拳大の礫を敷き詰め、横方向の胴木の前面には胴木を固定するための杭が打ち込まれています。
石垣は五条川に面する軟弱な地盤の上に築かれており、石垣の崩落を防ぐためにこのような強固な基礎構造が用いられたものです。
胴木の上に据えられた根石は地中に埋められ、その上に石を積み上げていきます。石組の裏には水はけをよくし、裏側から石垣が崩れないように、裏込めのグリ(栗)石が詰め込まれています。残存の石組は根石を含め最大で1.8mの高さです。
使用されている石は濃飛流紋岩と呼ばれる石材を主とし、ほとんど手を加えることなく自然
の石を積み上げ、石と石の問にはやや小さめの礫(縮介石·胴介石)が組込まれています。いわゆる野面積みと呼ばれている技法です。
信長塀・大手門・天主
名古屋城で見つけた、清須越
清須越
城下の発展を見越したまちづくりが行われました。
名古屋城の築城に伴い、清須から名古屋へ都市ごと移転しました。
これを「清須越」といいます。
これを「清須越」といいます。
名古屋の街は本町通を中心に碁盤の目に区画割され、武家屋敷町人街・寺社に分けられ、整備が進められました。武士、鍛冶職人はもちろん、神社は3社、寺院は9寺、町は66町に加え、蔵や橋にいたるまで名古屋に引っ越しました。
訪れて初めて知ることが多かった清須城の歴史
清須城=織田信長ですよね
織田信長の天下取りの出発点である清洲城に来られて、戦国の一時代がここなんや!って、感じながら、拝見いたしました
尾張名古屋、深堀りをして振り返って勉強してみようかなぁ!
2025年冬の旅行の締め
愛知県岡崎市、名古屋市、清須市を旅してきました
2025年冬の旅行の締め
愛知県岡崎市、名古屋市、清須市を旅してきました
人生、二度目の名古屋でしたが、もっと早くに訪れるべきでしたね
そして、一泊ニ日では、余りにも時間が少なすぎました
我が家から、α君で、約3時間と近い?のでいつでもという考えが甘かったです
往復走行距離は570kmで、意外と遠かったです
新名神を通りましたが、α君のカーナービは宙を飛んでいました
あらたなる武器Povo2.0のお陰で、それも回避できて助かりました
そして、一泊ニ日では、余りにも時間が少なすぎました
我が家から、α君で、約3時間と近い?のでいつでもという考えが甘かったです
往復走行距離は570kmで、意外と遠かったです
新名神を通りましたが、α君のカーナービは宙を飛んでいました
あらたなる武器Povo2.0のお陰で、それも回避できて助かりました
と、いうことで主たる目的地は計画どうり巡ることができました
「ひつまぶし」も、食することができました
前回の広島への旅では、重量を考え、オリンパスE-M1+F2.8で撮影しました
「ひつまぶし」も、食することができました
前回の広島への旅では、重量を考え、オリンパスE-M1+F2.8で撮影しました
前回の反省からやはり、今回、名古屋は主役のNikonZ7+24-70mmで撮影しました
この2ヶ所の場所での撮影枚数は、800枚強となりRAWでの現像も大変でした
これら写真は、宝物として、永久保存です
この2ヶ所の場所での撮影枚数は、800枚強となりRAWでの現像も大変でした
これら写真は、宝物として、永久保存です
さぁ、次なる目的地、2026年はどこへ行きましょうかね!
楽しみです
楽しみです

























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