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2025年12月20日

2025年・冬の旅行、徳川家康の岡崎城です

愛知県岡崎市康生町にある岡崎城
そうです、徳川家康公が生まれた、神君出生の城です
岡崎、我が住む地からは、なかなか訪れることができない地でもあります
今回、名古屋への旅行なので、ちと足を延ばして岡崎まで走ってきました
目的は徳川家康光生誕の地、岡崎城です


徳川家康光生誕の地、岡崎の案内塔が目立ちます

大手門

見えましたね・天守閣

凄い空堀です、必見です!
本丸周辺の縄張りと清海堀

岡崎城の本丸は河岸段丘の先端に立地しています。本丸南は段丘下の風呂谷曲輪を挟んで龍城堀(水堀)が廻ります。一方、本丸北側は地続きの段丘のため、深い空堀で区画して幾重にも重なる曲輪を造り出しています。清海堀は本丸と持仏堂曲輪を隔てる大規模な空堀で、岡崎城の最初の築城者、西郷頼嗣の法名「清海入道」に因み「清海堀」と呼ばれています。
二の丸から本丸大手門へのルートは持仏堂曲輪へ入り、180度方向転換をして清海堀に沿った幅の狭い通路(帯曲輪)を通らなければなりません。帯曲輪には絶えず本丸からの横矢が掛か
る仕組みになっています。こうした本丸周辺の厳重な守りは戦国時代後期に徳川家康が築き上げた縄張りをあらわすともいわれています。・・岡崎教育委員会より


その空堀、清海堀を眺めながら、天守側まで歩いてきました

清海堀の石垣
徳川家康が城主の頃の岡崎城は堀と土塁を巧みに配置した堅固な「土づくりの城」でしたが、天正18年(1590)の家康の関東移封により豊臣配下の田中吉政が城主(在城1590-1600年)
になって以降、本丸周辺の堀や天守台に石垣が築かれ始めます。清海堀に築かれた石垣もこれ以降のことと考えられます。清海堀の石垣には積み直しの痕跡が見られることから、江戸時代を通じて積み直しがあったと考えられます。・・岡崎教育委員会より


お! まだ紅葉がキレイ

龍神神社

社記
岡崎東照宮 龍城神社
祭神 徳川家康公 本多忠勝公 天神地祇 護国英霊 

往昔、三河の守護代西郷弾正左ェ門稠頼が此の地に築城 成る日、何処ともなく柳の五ッ衣に紅の袴をつけた気高い 乙女が天守に現われ、「われはこれ歳久しく此の処に住む 龍神なり、汝われを鎮守の神と崇め祀らば永く此の城を 守護し繁栄不易たらしめん」と、おりしも城中の井水噴き 出て、高く天に冲し飛瀑の如く龍神に注ぎ、一群の黒雲 舞い下りて天守を包むと見るまに龍神の姿は忽ち消えう せた。此の不思議に城主おどろき、天主楼上に龍神を 祀って城地鎮守と崇め永く加護を祈り、城の名を龍ヶ城、 井の名を龍の丼と称えしと云う。
天文十一年十二月二十六日、後の征夷大将軍徳川家康公 幼名竹千代君此の城に産声をあげ拾う。この英雄児の 生まれ出づるを待つが如く、城楼の上に雲を呼び風を招く 金鱗の龍を見たりと云う。今に龍神の井、産湯の井、 東照公胞衣塚を存する。
東照公戦乱の世を鎮め天下を統一し、万民和楽の大業を 達成して世を去り給う。その偉績を称え、城内に東照宮 を奉祀した。
後に本多忠勝公を合祀し、大正三年県社に昇格、神饌幣 帛料供進神社に指定せられ、岡崎市の中心神社として 崇敬せられた。昭和三十七年社殿再建の議成り、広く 崇敬者の浄財を得、又日光東照宮より神木の寄進を受け、 社殿を竣成。天神地祇、全市旧領の護国の英霊を配祀の崇敬益々厚く諸願成就、開運守護の霊験いやち こな大社である


岡崎城
岡崎城
15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣 (稠頼)が現在の岡崎城の位置にはじ 止めて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。 1542年(天文11年)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した。 江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。 石高は5万石と少なか ったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。
現在の天守閣は1959年(昭和34年)に復興され、3層5階の鉄筋コンクリート構造と なっている。 2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、 5階は展望室となっ ており三河平野を一望することができる。


天守閣
《 岡崎城の歴史》
1452-1455年(享徳元一康正元年) 西郷弾正左衛門頼嗣 (頼) 竜頭山に築城。
1531-32年(享禄4-5年) 安城松平4代清康、 竜頭山の岡崎城へ移る。
1542年(天文11年) 12月26日 徳川家康、 岡崎城内で誕生する。
1590-1600年 (天正18一慶長5年) 岡崎城主田中吉政、 城と城下町を大改造、天守閣・
惣構えの堀を築く。
1617年(元和3年) 櫓をもつ複合天守閣に再建。
1871年(明治4年) 廃藩置県、 額田県成立し旧城内に県庁設置。
城址は県有地。
1873-74年 (明治67年) 城郭取り壊し、天守閣解体、礎石のみ残る。 武家屋敷払い下げ。
1875年(明治8年) 旧本丸・二の丸、 城址公園となる。
1959年(昭和34年) 岡崎城天守
1962年(昭和37年) 岡崎城跡約 96,700m2を岡崎市史跡に指定。
1982年(昭和57年) 旧二の丸跡に、三河武士のやかた家康館開館。




天守閣 5階にあがってきました

よき眺めですね



ジオラマ

刀銘 金剛兵衛源盛次 室町時代

降りてきました

天守台石垣と穴蔵

岡崎城の天守は、天正18年(1590) に城 主となった田中吉政の時代に創建された
と考えられる。天守台石垣は花崗岩の自然 石を用いて築かれている。 北・東面には巨大な鏡石が入る。 城内で最も古い石垣である。天守台の石垣の内部は、地階として石垣に囲まれた穴蔵となっている。


天守閣と龍神神社

本丸埋門石垣

本丸に四箇所ある虎口 出入口)の一つ 「本丸埋門」は、門の外側にも枡形があり、二重の枡形に守られた厳重な構造でした。 現在のスロープ部分は階段であっ たと考えられます。
埋門は石垣の間に埋もれるように門が構築され、 石垣には門の横木が架け渡されていたことを示す痕跡が 残るほか、「卍」 や 「#」の刻印もみられます。


風呂谷曲輪
本丸南側に位置する幅の狭い曲輪です。 本丸に四箇所ある虎口(出入口)のひとつ 「風呂谷門」 へと通じる経路に対して本丸南の櫓群から横矢が掛かります。
門へと通じる階段は、幅が狭いうえに左側面と背面 の二方向からの横矢が掛かるため、 攻め手には厳しい構造となっています。


神橋

廊下橋
持仏堂曲輪と天守台を繋ぐ橋で、 大正9年(1920) に現在のアーチ型石橋に改修されていますが、 江戸時 代は屋根付きの廊下橋が架けられていました。 曲輪か ら天守へ直結する橋は珍しいものです。 廊下橋を渡った正面の天守台石垣には鏡石 (幅 2.1m、 高さ 1.8m)が配置されています。


      徳川家康光
うん? 左腕に鷹がいないぞ? 
あの有名な像、鷹がいる像は、駿府城にあるようです

家康公は、天文11年(1542)12月26日、岡崎城内の坂谷の邸(現在の二の丸から坂谷曲輪周辺)で生まれました。幼少のころは人質として岡崎を離れますが、自立した後は岡崎に戻り全国統一をめざして転戦を続けました。そして、慶長5年(1600)に天下分け目の関ケ原の合戦に大勝して、天下をおさめるに至りました。その後、250年つづく徳川政権「江戸幕府」の基盤をつくり、元和2年(1616)4月17日に75歳でこの世を去りました。この銅像は高村泰正の制作で、昭和40年(1965)「家康公350年祭」を記念して建てたものです。・・岡崎城公園案内より




      本多平八郎忠勝公像

七間門
三の丸の正面にあたるこの場所に「七間門」がありました。
 名称は門の正面の幅が七間あったことに由来し、その大きさは大手門に次ぐ堂々たる門でした。
七間門の外側には二の丸の馬出や東曲輪が二の丸の防衛のために配置され、 厳重な構えとなっていました。


「P」の片隅にある東隅櫓
東隅櫓は、かつて東曲輪だった場所の南東角に位置し平成22年(2010)3月に再建されました。
城の中核となる二の丸に繋がる切り通しを守る最後の砦で、明治初頭まで存在していました。
(「望楼式二重櫓」と呼ばれる)木造2階建で、入母屋造りの屋根は、岡崎藩主を務めた本多氏の家紋立葵が刻まれた本瓦葺きです。壁は白漆喰塗りで、高さ約9.4m。
・・岡崎城公園案内より


なにか、ええ感じの構図

定番 マンホール
やっと訪ねることができた、岡崎城
大河ドラマとか、歴史の番組で出てくる岡崎城
近い将来、駿府城に行ってみたい!
岡崎城公園・・気持ちよく散策できました

さぁ、名古屋に行きましょう



追記:この記事、ちと写真が多くなりました
そして、岡崎教育委員会、岡崎城公園さんから説明文引用させていただきました

人、観光客がいないのではありませんよ!・消しています









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