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2025年12月28日

2025年・冬の旅行、名古屋城・西の丸御蔵城宝館

本丸を、金の鯱鉾を見てきました
あのどでかい、天守閣を眺め、石垣に見とれ、堀端を歩き一周して、西の丸に戻ってきました


西之丸の米蔵と御蔵構
西之丸には、尾張藩の備蓄米を保管する米蔵が6棟ありました(一番御蔵~六番御蔵)。米蔵が立ち並ぶ空間は御蔵構と呼ばれ、食糧を貯蔵する大切な場所として、周囲は高塀や蔵の壁によって閉じられ、御蔵御門によって出入りは制限されました。
米蔵は大正時代までにすべて取り壊されましたが、三番御蔵と四番御蔵は蔵の外観を復元しています(西の丸御蔵城宝館)。他の4棟の米蔵と御蔵御門(礎石)、水道は、発掘調査や文献史料に基づいて、現地に位置を表示しています。



西の丸御蔵城宝館 (三番御蔵と四番御蔵は蔵の外観を復元)

西の丸御蔵城宝館 入口
正直、入口が分かりづらかったね、そして、開館? 迷いました


今回、展示物で撮影禁止以外をできるだけパチリしました
なかには国重要文化財もあります
よき、記念になりました

各説明は、展示品の説明板より、文字起こししています
説明と写真の不一致あれば、ご容赦を!


いきなり、鯱鉾

名古屋城の銅鯱
名古屋城の天守の上で輝く金だけではない。
ここに展示する3基の銅はじめ、複数の銀が現存する。 ただしいずれも名古屋城創建時のではなく、 明治43年(1910)、旧江戸城(現皇居)から移されたものである。
その頃の名古屋城は、名古屋離言と呼ばれ、明治天皇・ 皇后・皇太子が行磨されるときの御泊所として宮内省に管理されていた。 明治43年、旧江戸城の池御用が、行啓時のとして名古屋城西之丸の現正用の位置に移設 され、屋根の上には池御用の銀が掲げられた。 その他の旧江戸城も同時に移され、本丸の小天守、西隅櫓、東南隅櫓、東北信壇、表一之門、東 一之門、そして御深井丸の西北隅櫓に上げられた。
昭和20年5月14日の空襲により、正門はじめ名古屋城 の国宝建物の大半が炎上したが、いくつかの鯱鉾は大きく損傷しながらも姿をとどめた。これらこそ、明治以降名古屋城がくぐってきた数奇にして過酷な歴史の証人である。



旧国宝 名古屋城 表一之門 北方銅鯱


万治3年(1660)渡邊正俊·正次作 青銅製 名古屋城総合事務所蔵
銘「萬治三年庚子二月吉日 御鑄物師 銅意法橋 同子渡邊近江大掾源正次」
「明治四十三年三月自東京城移之」·「宮内省御用達 野田平吉 代人 田中嘉策」


もと江戸城の銅鯱で、明治43年、名古屋城表一之門の屋根上にすえられた。昭和20 年の空襲で表一之門が炎上した際、類焼した。炭化した木材や鉄の薄板が口の奥にあり、移築時に新調された部材と考えられる。
このような部材が残る銅鯱は他になく、鯱の据え方を伝えてくれるとともに、空襲のすさまじさを生々しく訴えている。総重量230kg。  名古屋市指定有形文化財 令和7年新指定


下写真、拡大すると、文字が認識できて、「万治」という年号に驚かされる


国指定重要文化財 対面所次之間南側「風俗図〔石投·山伏〕」
江戸時代 慶長19年(1614)
次之間と入側(廊下)を仕切る障子の腰板に絵を描いた紙を貼り付けた障壁画です。右側の2面は和歌浦に続く岸辺で遠くを眺める人物と、海に石を投げる男たちがいます。岸辺に自生する松は、岩絵の具の緑青で松葉まで細かく描かれています。
南面障壁画の左2面から東面襖(出品番号2)にかけて、場面は和歌山城下へと移ります。ここでは山にこもって修行をする山伏が城下を訪れた様子が描かれます。



国指定重要文化財 上洛殿一之間天井画
9「松に小禽図」 10「竹図」 11「梅図」江戸時代 寛永11年(1634)


おめでたい植物としてお正月飾りの定番の松、竹、梅をそれぞれ描いた天井画です。これらの植物は歳寒三友といいます。寒い冬にも青々と茂る松と竹、春の訪れを告げる梅の花は、厳しい寒さに耐える高潔な植物として好まれてきました。
3面ともに墨でモチーフを描き、部分的に金砂子を散らします。
「松に小禽図」はさな鳥が車輪状に広がる松葉に飛んでくる様子を描きます。
「竹図」は『小えて繁茂する竹をあらわします。
「梅図」は梅の枝先のみを描き、枝にはかっくらとした花弁の白梅が咲いています。

「梅図」



「竹図」

「松に小禽図」

国指定重要文化財 対面所次之間東側「風俗図〔綱引·見世物〕」
江戸時代 慶長19年(1614)

和歌山城下が描かれます。注連縄や左義長を作る人や、羽根つき、綱引、毬杖で遊ぶ子どもたちが描かれ、正月の情景を伝えます。門前では千秋万歳が披露され、見世物小屋では太刀の抜身と片手逆立ちの綱渡りが行われています。見世物小屋の中には観客が集まり、木に登って見物する者まで現れます。
左側2面に描かれた海は吹上浜と見られ、和歌山城以南の景色が広がります。



名古屋市指定有形文化財 12 享元絵巻 江戸時代中期


東海道鳴海図 
2代目歌川国綱筆 江戸時代後期 名古屋城振興協会蔵

14代将軍·徳川家茂(1846~1866)による文久3年(1863)年の上洛を描いた錦絵シリーズ「東海道名所風景」(または「御上洛東海道」)の1枚です。鳴海宿は、現在の名古屋市緑区に
位置する東海道 40 番目の宿です。店先には有松·鳴海絞りの着物が並んでいます。行列の行く先に名古屋城の天守が見えることから、一行は北へと向かっているとわかります。



柳薬師納涼図
高力猿猴庵筆 江戸時代後期 名古屋城振興協会蔵

広小路にあった新福院は柳薬師と呼ばれていました。毎年5月18日から7月7日まで夜間開 帳が行われ、開帳には多くの人でにぎわったと伝わります。本作は高い視点から景観を広くとらえた
鳥瞰図で、出店や見世物に人々が集う様子が描かれています。
筆者の高力猿猴庵(1756~1831)は自ら挿絵を手掛け、数多くの日記や著書を記しました。


名古屋誕生 徳川家康の大号令
威信をかけた 最大級の城



家康が徳川政権を盤石なものとするため、最先端技術を結集してつくらせました。
名古屋城の石垣普請は豊臣恩顧の大名を 含む20家の大名に割り当てられ、多くの人々が名古屋に集められました。慶長15 (1610)年6月より石垣普請は開始され、同年8月末には加藤清正が天守台の石 を完成させています。他の石垣も同年9 月頃におおむね完成し、翌年正月より中井 正清を大工棟梁、岡部又右衛門を大工頭、 小堀遠州を作事奉行として建物の建設が始められました。

同時に清須城の解体も進められ、部材の 一部は名古屋城の建物に再利用されまし た。家康は御殿より天守の建設を急がせた ことで、天守は慶長717(1612)年12月 2日に完成し、本丸御殿は慶長20(元和元・1615)年に完成しました。



天然記念物 名古屋城のカヤ
名古屋城のカヤは、高さが16m、幹回りが9mある市内有数の巨木です。
江戸時代に編まれた『金城温古録』によると、1610年(慶長15)の築城開始以前からこの地にあり、長生きする神聖な樹木として残されました。その実は縁起のよい食料として、歴代の尾張藩主も食したと伝わります。
こうした歴史や由緒から、1932年(昭和7)に国の天然記念物に指定されました。1945年(昭和20)の名古屋空襲で被災しましたが、その後生育状況は回復しています。



お土産さんの「御城印」 記念にパチリです

西の丸

三回に分けて、名古屋城を記事にいたしました

名古屋城、でかい、広い、みごとに尽きます
私の外せない、見逃せない、この眼で見ておきたいものの一つの名古屋城
これが達成できたので、満足です、
本丸御殿の絢爛豪華な襖絵など、戦災の折、この襖絵など一部を退避保管したとのこと
いやいや驚くことばかりでした

願わくば、本丸天守閣の早期復興です
難しいかなぁ?












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