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2013年11月17日

大阪といえば・・大阪城です

大阪城・・そう大阪城の石垣です

難波宮跡を訪ねてきました・・「α君」を停める場所・・大阪城駐車場・・・
南外堀のお堀端を歩いて・・大阪歴史博物館へ・・・

しかし、大阪城を、素通りできるわけがありません・・・
大阪城・・・昔、昔、その昔・・親子三代で、梅林を見物以来です・・・
時を重ね、訪れた大阪城・・その雄姿は、変わらず、大阪を象徴するかのごとくです!

画像左:大阪歴史博物館パンフより引用
写真右:大阪歴史博物館9F階段付近よりガラス窓越しで・・
最近、石垣に興味があったわけではないのですが、古寺名刹、お城など・・訪れていくと・・・覚えました!
ほんの一部の名前・・野面積み(穴太積み)、打ち込み接ぎ、切込み接ぎ・・ぐらいかなぁ!!
そんな風に石垣・・と、脳裏に焼き付いています・・・先日の備忘録で・・
和歌山城・・紀州青石の石垣!!・・ 和歌山中、紀州青石の石段、石垣、参道・・私見ですが!m(_ _)m

駐車場に「α君」を停め、南外堀のお堀端へ出た途端・・わぁぁ!・・と、一人、感動したのです!
昔、昔、その昔・・親子三代・・の時は、こんなこと、思った、記憶さえありません・・・
こんなだったけ・・!と、ホント、感動なんですよ!・・馬鹿みたいと、云われそうですが・・!
南外堀を右ばかり、見ながら・・・石垣の色が、変わっています・・水位が下がった証拠です・・ググってみました!
昔の写真も!・・そして、なぜなのか・・水位・・外堀の水・・天然の地下水ではないとのこと、そして、南外堀は昭和40年代はじめの地下鉄建設によって地下の水脈に異変を来たしたが、現在では下水の二次処理水を注入する事でどうにか往年の体面を保っている・・と、あるが・・?

右回りにお堀端を歩き、そりゃ、カメラ・・パチリ、パチリの連続です!
多分、今回の大阪城、大阪城の石垣の備忘録・・・写真集かもね・・・<m(__)m>

眺めて歩いていながら・・城壁の石垣の上も櫓、知らないのです・・備忘録を記しながら、知りました・・
「六番櫓・・重要文化財」なんです!・・
城壁にどんと座している姿・・うん!・・見事な景色です(後述、内側からもパチリと・・)

大手門前に近づいてきました・・
写真右下:多聞櫓の姿、 南に延びて、東に折れる塀もよく見ることができる一枚です!
はい、大手門前に着きました・・昔、昔、その昔・・は、この辺で、若者がラジカセでガンガン音鳴らし、踊っていたのを見た、記憶があります・・
しかし、今や、外国語が飛び交っています・・・今日は、まぁ、騒がしいお国の方々は来ていないようですが・・?
小学生の団体・・誰でもかれでもに、「ハロー!」って声かけて・・・いいけどね!・・ちょっと、考えようかね!

大手門前から・・・写真・・左から千貫櫓・多聞櫓・大手門と続きます・・グットショットですね!
(千貫櫓・多聞櫓の間に天守が見えます)

写真上左側:千貫櫓・・重要文化財・・

大阪城の大手口を守る重要な隅櫓である、元和六年(1620)に築かれた建物の一つであり、大阪城内に残る建物の中では西の丸内にある乾櫓と同様に大阪城最古の建造物とあります
写真右下:木々に隠れて、見えません・・・
大手門・・重要文化財・・
城の正面を大手(追手【おって】といい、その入口を大手口、設けられた門を大手門(追手門)と呼ぶ
現存する大阪城の大手門は、寛永5年(1628)、徳川幕府再築工事のさいに創建された高麗門で本瓦葺で、扉や、親柱を黒塗総鉄板張とする

親柱、控柱の下部はその後の腐食にて、根継が施されている・・一見不可能な技術とのこと・・ググってみて解りました・・謎は解明されたとのことです!
門の左右に接続する大手門北方壁、大手門南方壁も重要文化財に指定されている(案内板 引用)
この、根継が施されている・・個所、気がつきませんでした・・
備忘録記する時、写真に運よく、写っていました・・ホッ!!(写真右上:赤丸部分)


大手門から入り、右には、「市多門跡」があり・・大手口枡形内に定期的に商人の入場が許可され、この櫓の中で一年交代で城に詰めた旗本が日用品を調達するための市が開かれたことから、市多聞と名がついた
しかし、明治維新の大火で焼失し、現在は礎石のみが残る・・南に延びて、東に折れる塀のうち、市多門跡と重なる部分は市多聞焼失後に築かれたものである(案内板 引用)

大手門を入ればそこは大手口を内部から防御する大手枡形・・枡形とは、城の重要な出入口に設けられた四角い区画であり敵の進入を食い止め役割を果たした
正面の石は大手見付石は、表面積が約29畳敷きで城内第4位、左の大手二番石は約23畳敷きで第5位、右の大手三番石は約22畳敷きで第8位・・いずれも小豆島の採石地は小豆島と推定されている

現存する大阪城の遺構は徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いたのである・・防御面はもちろんの事ながら徳川幕府の権威を改めて天下に示威するためのとも思われる

多聞櫓・・重要文化財・・

大手口枡形の石垣の上に建つ櫓で、大門の上もまたぐ渡櫓と、その右に直角に折れて接続する続櫓によって構成される
寛永5年(1628)、徳川幕府再築工事のさいに創建されたが、天明三年(1783)落雷によって全焼、寛永元年(1848)に再建された。土塁や、石垣上に築かれた長屋状の建物を多聞(多門)と呼ぶ(案内板 引用)

多聞櫓をくぐり・・城内へ・・多聞櫓の裏側(城内側)の姿も、これまた、必見です・・・
少し、歩くと・・・南仕切門跡・太鼓櫓跡が・・・
二の丸の西と南の区域は石垣で区切られ、通路にあたるこの個所に建っていたのが、南仕切門である
又、門の西側石垣の上には太鼓櫓と呼ばれる、二層の櫓があり、寛永5年(1628)、徳川幕府再築工事のさいに創建された
もじどうり、太鼓が納められていて、太鼓坊主と呼ばれる僧形の役人が香をたいて時刻を計り、城内勤務の大名、旗本以下の召集や交代時の太鼓を打ち鳴らした(案内板 引用)

さらに、歩いていくと・・内堀が・・水は無く、空堀に・・・なにやら、パイプが、お堀を渡っている・・・

これも、調べると、上水道の配水管であり、
戦前、隣接する大阪砲兵工廠で作られたものとのことです・・ちょっと、違和感がありますね!
いよいよ、桜門へ・・重要文化財・・
本丸の正門にあたる。ここは寛永3年(1626)、徳川幕府再築工事のさいに創建されたが、やはり、明治維新の大火で焼失、明治20年陸軍が再建した
門の両側に見える巨石は龍虎石と呼ばれ、江戸時代は雨が降ると右に龍、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた(案内板 引用)
写真右上:桜門から蛸石の上に見える、天守閣・・これも、なかなかの景色です!


突然・・ゲリラ雨・・二十人ぐらいが、桜門の下で雨宿り・・隣の観光客は、中国人、前は白人さん・・用意がいいね、カッパ出して、・・サッサと、行きはりました!
私・・ここは、スマホアプリ・・「あめXMP」で雨雲の通過を見てました・・それと雲の流れを・・うん!・・これは、「すぐにやみます!」と・・5分程で、雨、雨雲も東へ、いき・・・散策再開・・

桜門枡形の巨石・・が、どんっと、巨石の壁が!
本丸を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」と呼ばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓が建てられた
寛永元年(1624)、徳川幕府再築工事のさいに岡山藩主、池田忠雄の担当・・おお、担当制か?・・・で、築かれた
石材は、備前(岡山)産の花崗岩である。正面の蛸石と呼ばれる城内第1位の巨石で、表面積およそ36畳敷きで、重量は約108トンと推定される
向かって、左手の巨石は表面積約33畳敷きで、城内第3位である・・上部の多聞櫓は明治維新の大火で焼失・・・

蛸石・・離れて見て、そして、近づいて見て・・
うん!・・蛸やなぁ・・蛸や・・

まぁ、しかし、石の大きさで貢献度を計られているような・・さぞかし、辛いやろなぁ・・
運送費もばかにならないやろにね、財政困窮が・・
それが、徳川家に狙いでもあるけど・・ね!
この桜門枡形の巨石を見上げながら、右方面へ歩き、天守閣へ・・参りましょう!
そして、巨石を左折すると・・・金色に輝く、天守閣が・・・おぉおぉ・・派手やなぁ!・・
見上げていると、その右手には、大阪市博物館が・・旧陸軍第四師団司令部庁舎を利用して1960年に開館し、2001年に閉館したとのこと・・・多くの方が、先ほどの雨で、雨宿りか?

今回は、天守閣は登りません・・・お姿、拝見して、帰ります・・
しかし、化粧直ししたといえ、金色の飾り付け・・いやはや、観光地やね!

ありました・・樹齢200年の大銀杏の木、覚えています・・・
元気そうで何よりです・・黄色の葉っぱが、天守閣の金色の飾り付けに負けじと、・・色づいています!

推定樹齢約200年、樹高約10m、幹回約4m

いろんな事を、見てきはったんでしょうね!
観光客がまず行かないであろう、大阪市博物館の裏側、東側の内堀方面へ回ってみましょう・・
やはり、だれもいません・・
うん?・・なにやら、案内板が・・馬印櫓跡・・・
戦陣において大将の所在を示す標識を馬印といい、この中に徳川家康が大阪の陣で用いたとされる馬印が納められていたと・・(案内板:引用)

石垣も一部、崩れかけ、草は生え、手入れがね・・
この石垣から、京橋方面、大阪ビジネスパークのビル群が、南望めば、空の内堀と、水のある、内堀が・・その先に「一番櫓」の屋根が少し見えます・・(写真右下の右上角あたり・・)

さぁ、帰途・・同じコースをたどって、又々、カメラ、パチリパチリの連続です・・
帰途は、城内から出て行くのですから、若干、下り坂・・・蛸石にご挨拶して・・桜門をでます・・
その正面に・・豊国神社・・勿論、豊臣秀吉の像が・・どんっと!建っています!
ご挨拶ですから、拝観して、・・はい!
その、左先には、修道館が・・・
修道館・・修道館は、各学校や各道場の練習生が、より高度な技術を求めたときの受け皿として、誰でもが練習したいと思ったときに 予約無しで利用出来る、武道の錬成道場として昭和38年設立されたものです・・えい!おう!・・気合いが聞こえそう!

堀端のあっちこっちにノボリが・・
「大阪の陣、400年 2014~2015」とあります・・・
多くの観光客がきてもらいたいですね! 

400th anniversary of The War of theToyotomi and Tokugawa Clans(2014-2015)・・

大阪城天守閣・大阪の陣400年プロジェクト
がんばって下さい・・・

南外堀から見た、六番櫓、今度は城内から・・重要文化財・・・
二の丸南側の石垣には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓が、東から西へ一番から七番まで建っていた。この櫓は東から六番目であるから、六番櫓という。寛永5年(1628)、徳川幕府再築工事のさいに創建さたのです(案内板 引用)

多聞櫓をくぐり、大手門(追手門)へ・・・
そう、この近所に追手門学院があったはず・・その名前もそうかなぁ・・
ググってみました・・1888年(明治21年)、大阪城三の丸という大阪の中心地を発祥地として創立された追手門学院
21世紀の今もなお西日本最古の小学校として現存する追手門学院小学校とのこと・・うん!
ほんとは、「おおてもん」、しかし、大阪にいてるときは「おってもん」と、読んでいた記憶があります・・余談でした!

今回は、大阪城・・西半分だけしか、見学できませんでした・・・
近々、東外濠側、北外濠側にアタックしてみましょう・・「石」の全貌が・・ そんなたいそうなって、云われそうですが!!

長文、多々写真となりました・・拡大頂ければ、幸いです・・m(_ _)m

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