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2013年12月4日

岡山県高梁市、観光、お薦めポイントを散策です!

備中松山城、登城後の、高梁市、お薦めポイントは・・・・
高梁観光協会さんで、お聞きしました!

石火矢町の武家屋敷、頼久寺庭園、紺屋川筋、高梁キリスト教会と!

思ったより、備中松山城を眺めすぎ、時間の経つのを忘れていました
備中松山城を下り、最初のお薦めポイント・・・石火矢町の武家屋敷
高梁観光協会さんに説明を受けています、「P」ありますって・・・

白壁の塀を左折すると、そこは南北に通る上家中屋敷地の石火矢町、武家屋敷、旧折井家、旧埴原家へ!
案内板ありました、「P」です!
早速、「α君」を停め、まずは、旧折井家へ・・・二軒分の見学が、400円となっているとか・・・
早速、拝見します
受付のおばさん?
こちらの持ち主?・・・どうぞ、玄関よりと!
なにやら、ちょんまげを結った、人形が玄関右に座って控えております
玄関上がると、いきなり、お辞儀をしているのが、頭をあげ、膝に手をつきます
おおぉ!・・・驚きました!・・・お出迎えなのです
おばさん・・センサーで動きます・・ビックリしましたか?・・と!

この折井家・・軍役を掌る物頭役、禄高は200石前後、武家屋敷は官舎と役所を兼ねていたとのこと
当藩板倉家は一番から五番まで五段階に分け、家柄と職務内容にふさわしいものが与えられていたと!
折井家は二番屋、建坪37.75で部屋など仕様が定められていたようです・・

奥座敷に、親子三人?のご家族が・・
人形、座っておられました・・う~ん?
・・・勉強中・・かなぁ・・・?
母屋、長屋門で構成され、母屋は書院造り、中庭の池、庭石などは、ほぼ昔のままとのことです
と、いったところから、管理職かなぁ・・なかなか、立派なお宅?、御屋敷です!
(写真左下:厠 写真右下:風呂)
散策マップでは、角川映画「バッテリー」ロケ地と、あります・・

折井家から、30m先に、旧埴原家へ・・・
この、旧埴原家・・先ほどの武家屋敷の仕様といい、趣といい・・ちと、違う?・・
格式が上・・?・・で、案内板をよく読むと・・・・
藩主勝政公の生母の実家であるため、松山城下の武家屋敷としては、寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りで、市の重要文化財に指定されています
禄高は120石から150石取りで、近習役、番頭役を務めた武士の家である・・・・

先ほどの折井家が禄高200石、埴原家、120石から150石取り・・やはり、藩主勝政公の生母の実家であるための屋敷の設えも違うのでしょう!

江戸時代後期、平屋建て、桟瓦葺き、流れ向排、入母屋造りで、三つ葉懸魚を取付
玄関には、幅二間の式台を設け,玄関正面には一間半の棚を設けている
式台の上部には・・・
袖切りした水引紅陵に若葉を施し、蟇股には、加賀前田家が使用した、梅鉢の家紋が彫刻されている
十二畳の「座敷」は、本床造り、海老束で支えた違い棚に天袋、部屋の境は京風の格子欄間となっていて柱は贅沢な面皮柱を使っています
(写真右下:座敷側から、奥座敷を・・)
狆潜りもあり・・狆潜りは、動物(犬)の狆がくぐれるような隙間としてこの名称がついているのだが、
本来は、書院から採り込んだ光を違い棚の下側の奥まで、とどかせる役目を持っています・・100年名家の番組で知りました・・狆潜り!そして、長押も・・お見事です!!
そして、地板は、畳であり、地袋はありません・・・この辺も100年名家の番組で知りました!!

付書院には、禅宗風の火燈窓を設置しています・・いや、いいですなぁ!!!
座敷東隣の四畳半・・・押入れを隔てる壁には下地窓(塗りさし窓)も、床柱を省略した数寄屋造りの面影を残しています
(写真右下:座敷縁側よりお庭、拝見です)
屋敷裏には、蔵や、車つるべ井戸が残っています・・・
どうみても、120石から150石取り禄高の武士の家ではなく、藩主勝政公の生母の実家であるためでしょうね!
(写真左上:広敷より、玄関、座敷が見えます 右上:玄関から、門を眺めます)

さぁ、出ます・・白壁が続く、石火矢町の武家屋敷筋に戻ります・・ここにも、ロケ地が・・・
なんと、大好きな、あの「寅さん」8話、寅次郎恋歌・・さくらの旦那の博さんの実家の門・・・・とのこと!
早速、寅さんの映画を観て、確認しなければ・・・!! (写真右上)

ここで、写真を撮っていたら・・通りすがりのおばさんが・・・話しかけてきて・・いただき!

  おばさん・・ここが、寅さんのロケ地よ!・・敷地内の家は新築だけど・・
  私・・良い町並ですね・・・
  おばさん・・そうやね!
  私・・朝、霧が凄いですね・・・
  おばさん・・霧が出れば、昼、温度1度、高く、朝夕、一度低い・・って!・・夏、暑いよ!
  おばさん・・向こうの方のお寺もロケ地よ・・なんて名前だっけ・・?
  私・・そうですか!・・いいですよ! 今から、頼久寺さんの庭園を拝見に行きますから・・・
  おばさん・・そう!、あそこはキレイらしいよ!

ありがとうございました・・と、礼を言い、おばさんは行き、私は、頼久寺さんへ

歩いて3分ぐらいか・・・頼久寺さんへ到着!・・「P」あり・・!
元の武家屋敷「P」へ戻り、頼久寺さんの「P」へ「α君」移動・・・・

頼久寺さん・・「P」の場所、下から見上げると、お城?の雰囲気・・・
よくよく、お寺からいただいた、案内書には、「小堀遠州」が松山城荒廃のため、仮の館とし、本寺を外護したとある
小堀家・・・9代目の城主(1600年~)父、小堀正次が入城するも、急死、政一(遠州)が継承・・・
階段を登ると、門前は、枡形と思われる景観・・・
先に、お庭を拝見しましょう・・・300円をお支払いし・・・庭園へ・・
書院の縁に座して・・一人、庭、眺めました・・この時、スピーカから、庭の説明が流れ・・よく、解りました!
名勝、頼久寺庭園・・蓬莱式枯山水庭園・・小堀遠州作庭中、傑作庭園と称せられています
(写真右上:真ん中は鶴島・・左端部分、亀島)
石灯籠は、暦応二年(1339年)西念勧進によるものとある・・
(写真左下:庫裡から奥の書院を・・ 写真右下:書院から本堂を・・)
平成21年には、本堂、書院などが指定地に追加され、頼久寺全体が名勝となっております

では、日本の道100選にも選ばれている、紺屋川筋へ・・・
「α君」・・頼久寺に停めさせていただくお願いして、快く了承をえて・・散策へ!

頼久寺から歩くこと僅か、踏切を越えた、そこは、紺屋川・・高梁川に流れています
この川、かって備中松山城の外堀の役割を果たしておりました・・・
この川のお城側・・この橋を渡ると、城内三の丸だと・・ある!
紺屋川・・キレイに整備され、散策・・バッチシです!

その側に・・・岡山県下最古の教会、高梁キリスト教会堂があります・・
観光客の方・・・ご自由にどうぞ・・と、ありましたので、教会内へ入らせていただきました
備忘録にも記しました、明治村にも明治時代の教会・・やはり、同じような佇まいでしたね・・思い出しました!
明治22年の建築で、県の史跡に指定されています。
明治12年に始まった高梁でのキリスト教布教活動は、翌13年に新島襄(にいじまじょう)が来高すると急速に発展し、信者の浄財によって教会が建築されました
新島襄と備中松山城・・の関係!・・(備中松山城内展示室、掲示資料から)
備中松山城の備忘録にも記しましたが・・・新島襄は天保14年(1843)武士の子として安中藩板倉家の江戸屋敷で安中藩士・新島民治の子として生まれる
安中板倉家は、備中松山藩板倉家(板倉家は1744年~1871年の藩主)の分家に当たりその縁で、松山藩江戸藩邸の漢学師範、川田蟹江に師事したとのこと!
新島襄は、川田の推薦で、備中松山藩の洋式帆船「快風丸」に二度乗船・・・最初の航海で、備中松山藩の領地、玉島を訪れています

そして、新島襄はアメリカでキリスト教を学ぶ計画を・・しかし、安中藩主板倉勝に拘束される・・この新島襄の困難を助けて彼を函館まで運ぶ上で大きな役割を果たしたのが、備中松山藩主、板倉勝静だったのです
アメリカへ行けたのは備中松山城の板倉勝静とその家来たちのお陰であることを忘れず、その恩に報いんと、明治13年(1880年)二月、新島襄は京都から、高梁へやってきて四日間に渡って教えを熱心に伝えました
その教えに感動した16人が、明治15年高梁基督教会を設立、迫害事件を乗り越え、明治22年高梁初の大型洋館風建築として建てられました

NHK大河ドラマ・・先週、 新島襄が神に召された週でしたね・・

いや、歴史、人のつながり・・・ただただ、感心するばかりです!!

橋を渡り、城内三の丸側に、・・・おや、高梁町並み建築デザイン賞・・トイレなんです、それと消防団の消防車倉庫の建物!!
その横は、「藩校 有終館跡」の碑が・・・現在は高梁幼稚園

備中松山藩の学校として建校されたが、天保3年(1832年)の大火により焼失・・と、ある・・・

それにしても、広い運動場がありますね!
(写真無し・・m(_ _)m)


さて、本来ならば、大好きな、寅さんのロケ地、薬師院・・伺いたいのですが・・・・

次の目的地があるのです・・・
備前、旧閑谷学校なんです・・約、80kmはあります・・・急いで行かないと、間に合いません・・

では、備中松山城、そして、高梁市・・いい街です・・さようなら・・又の機会を、必ず・・・m(_ _)m

帰途路の国道484号線から・・
山上の備中松山城にお別れです!(写真:右側山上)

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