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2018年8月6日

おまき桜・・豊岡市指定天然記念物・・ 兵庫県豊岡市竹野町椒

中井権次一統の足跡である、㯮椒神社を参拝いたしました
その県道1号線を北上するわけですが、数十m、目と鼻の先に、「おまき桜」があります


郷土記念物 㯮椒神社のおまき桜

    豊岡市指定天然記念物 おまき桜

下宮(祇園社)の社前にある推定樹齢500年(平成3年(1991年)時点)の江戸彼岸
樹高14.5m、根回り7m、目通り樹幹6.05m、枝張りは東西15m、南北18.5mで、樹冠としては占めて4アールに及ぶ、豊岡市指定天然記念物。平成8年3月29日には兵庫県の郷土記念物の指定を受けている


 樹幹内部に空洞が見られるが、樹勢は旺盛である。 かつて麻の生産が盛んだったころ、麻を緒に使うことから、この地域では麻のことを「お」と言いっていた。
その名前は、このサクラに花がつけば「苧(からむし)」つまり「麻」の種を蒔く時期であることから由来すると・・・案内板より引用


   㯮椒神社の下宮
    祇園社 - 本社鎮座地の北麓に鎮座し、本地仏としての薬師如来像を祀る
    石灯篭には、文化六年(1806)と刻銘されている

たけの観光協会・・「おまき桜」の開花時期の写真を拝見すると、見事なものです
開花時期に訪れてみたいものです



㯮椒神社・・中井権次一統の足跡を巡って・・兵庫県豊岡市竹野町椒1738-2

中井権次一統の足跡を巡ります

兵庫県豊岡市竹野町椒1738-2、㯮椒神社(はじかみ)です
兵庫県豊岡市竹野町といえば、私、思いつくのは、日本海、竹野海岸です
と、いうことで、距離もあり、なかなか、走りませんでした・・・
しかし、北近畿豊岡道が、日高神鍋高源まで、延長開通して、豊岡は近くなりました
そうなれば、走ります・・・

㯮椒神社へは、日高神鍋高源を出て、県道172号から1号線を北上して行くわけです・・
しかし、地図では、山中の鎮座地は分るのですが、参道、社頭が分りません、見つかりません

ググっていると、先人の一枚の写真が・・・おおぉ、ここか!・・ってね
写真下、1号線から、田越しにズームで・・・鳥居が見えます

   これより僅か、北よりに、農道? 参道があります
   落石もあり、「α君」は入れません・・・路肩へ「P」します
   恐らく、神社の存在さえ、分らないかも・・・素通りですね

   社頭です
   鳥居の右脇には「式内大社 㯮椒神社」と刻まれた社号標
   鳥居の扁額には「八幡宮」と刻まれている


    さぁ、登りましょう・・・上、見れば、建物が見えます もう少しです

神門・・


右折・・・
うん? 楽勝と思いきや、この参道は・・・凄いぞ! 普通の山道 足下には、注意!

    岩肌、そして、木の根の階段? 足場を考えて登らないと!

 左折・・・
 未だ未だ続く、岩肌、木の根・・・ジグザグに通れる場所を選びながら登ります
 右側は、絶壁・・・雨、雪、足下悪い時は、この参道は歩行困難、いや、不可ですね

割拝殿です やっと、到着です
・・息、ハァハァ・・・汗、滴り落ちています  参道では、最強の厳しさです


割拝殿の壁上の由緒書

㯮椒神社
祭神:不詳
由緒 :創立年月不詳なるも仁明天皇承和九年(西紀八四二年) 官社に預り清和天皇貞観十年(西紀八六八年)従五位上に 叙せられ延喜式(延喜五年、西紀九〇五年)の制名神大に列せらる 中古以降所傳の明確を欠き明治六年村社に列し 同二十二年本殿を再興し幣殿を新築せり。
(續日本後記)    仁明天皇承和九年冬十月 辛酉朔乙亥但馬國気多郡蜀椒神預官社
(三代実録)    清和天皇貞観十年十二月廿七日丙午授但馬國従五位下椒神従五位上
(延喜式巻十神名式下)    但馬國一百丗一座    大十八座、小一百十三座
             気多郡廿一座    大四一座    大四座、小十七座
             㯮椒神社    名神大
(特選神名牒)    㯮椒神社    名神大
 祭神今按蜀椒は今本ホソキとよめれど誤なり和名抄に蜀椒 和名奈留波之加美一名不佐波之加美とみえたればハジカミとよむ べし古事記にもくめのこらがきもとにうゑしはじかみくちひびくとあり
さて典薬式に但馬國蜀椒柏子仁各一斗とみえ今も朝倉 山椒とて名物なり此乃椒村はことに其物のよく生ずる所 なりけむ故に其土地に鎮ります
神を蜀椒神と号けて祭れるものなるべし



竹野町指定 彫刻 名称 狛犬一対

境内

立派な社殿です 両側は雪除けでしょうね

扁額


向拝・・・見事な彫刻です

兎の毛通し、口を開いた鳳凰、その口中に朱が見える
奥、ふところには、力神が屋根を支えている

上を睨む、龍の眼が鋭いです 目じり付近には朱色が・・・

蟇股の獅子、木鼻、持送り


右の獅子の背面に刻銘が・・「彫物師丹波柏原住人 中井権次正貞」


             左脇障子・・ピントが甘いです

              右脇障子・・ピントが甘いです




   天明四年(1748)と読める

厳しい参道の様子の写真が多かったですね・・・ほんと、厳しかったです
下山も、落ち葉と、岩肌で、ズルッといきそうで・・・

猛暑の夏ということもあり、全身、汗ダクでした
しかし、境内に到着し、社殿の彫刻が眼に飛び込んでくると、そんなことは吹っ飛んでしまいます・・・
しばし、息、落ち着くまで、眺めていました・・いくら、防滴防塵のカメラとはいえ、滴り落ちる汗は大敵です

㯮椒神社、彫刻の素晴らしさと共に、参道の厳しさは、思い出と記憶に残る一社ですね






2018年8月5日

二村神社・・中井権次一統の足跡を巡って・・兵庫県篠山市味間奥280

中井権次下絵展示会の帰途、中井権次一統の足跡を巡っての原点である文保寺を訪ねました
文保寺を訪れたら、必然的に参拝する、二村神社です

左:文保寺へ 鳥居は、二村神社へ
前回は、2015年3月5日に、参拝しました
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2015/03/blog-post.html


二村神社由緒

当社は味間地区七ヵ村の惣社として古来より氏子の崇敬を集めてある。由緒によれば室町時代の文明十四年(1482年)、延喜式内社である見内の二村神社で座争いが起こった際、神宝、神器が周辺の各村に持ち帰られ、味間には御神体が御輿によって運ばれたとされる。御神体はまず西古佐村字イミノ木に仮の社を築いて安置されたが、のちに、味間村字松本に社殿を築きここを永年の鎮座地としたとある。当神社にはその時、御神体を運んだと伝えられている御輿が今も遺され西古佐のイミノ木はこれを契機に神興谷と称される。
二村の社名は、この座争いの神宝分散の経緯により見内の二村神社に則ったものと見られ味間二村神社の歴史はここを発端するのであろう。 当神社の主神は伊弉諾命と伊弉再命である。 明治41年に御霊神社のほか五社が合祀される。 特に記するべきは明暦二年(1656年)に境内地に祀られた波多野秀治の御霊神社である。・・・二村神社由緒案内板より引用

今年、この二村神社の座争いで、それぞれが、神宝、神器を持ち帰り、建立した各地区の二村神社を訪れました・・・ここ、味間の二村神社は、御神体を運んだと伝えられている御輿だったとあります・・・これで、二村神社の座争いで分散された、二村神社は全て参拝したことになりました

写真下:前回撮影した神輿、三基ありましたが、これがその時代のもとはわかりません
しかし、相当古いものでしたが・・・



拝殿

向拝

手挟み、桁隠し

本殿

二村神社祭礼

お! 足元をニュロニョロと・・・アシガラシ?の幼蛇・・・毒蛇です

時刻もPM5:00 神社写真撮影は、厳しい時間です・・・
と、いうことで、枚数少なく、詳細な彫刻も撮影できませんでした・・
11月3日~7日、文保寺創建700年開帳法要の折でも、再度撮影しましょうか