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2024年3月25日

県重要有形文化財に指定された「舟城神社本殿」を訪ねます

中井権次一統の足跡をでもある、兵庫県丹波市春日町長王1、舟城神社です
その本殿が、県重要有形文化財に指定されましたので、またまたその姿を拝見に参拝にきました


一山?登ってきました

定番の撮影ポイント
Ricoh GX200 19㎜

画角差をまたまた、比べてみました
NikonZ7 24mm

県重要有形文化財に指定された「本殿」

なんど見ても、大きくて素晴らしい

「牛神さん」として信仰を集め、本殿は1749年に播磨・丹波地域で活躍した大工が建てたとされる、大規模な入り母屋造り
賽銭箱から手前に伸びる向拝部は、その108年後安政三(1857)に延長して作ったものです
本殿、彫刻は、中井権次一統の世界にて…
https://nakaigonji.blogspot.com/2024/03/blog-post_25.html


社務所に掲示されていました

舟城神社は寛延ニ(1749)、大工の播州多可郡塚口新田村の飛田平蔵が建築
棟札が保存されており、建築年だけでなく改造年も明らかと
本殿は北面しており、神社としては珍しいという
創建は文安三(1446)で、現在の本殿は再々建である
…丹波新聞より引用

そして、舟城神社のホームページには、県指定重要有形文化財となった「棟札」の説明がなされている

その内容は…
創建は文安三年(1446年)、 萬治元年(1658年)には初代教明和尚により古社再建が行われました。別当寺 天台宗 天王山覚王寺として発興し江戸時代の終わりまで僧侶による加持祈祷、祭祀、神社の管理運営が行われました。

棟札側面を見ると「萬治元年戊戌年前住教明建立今至寛延二己巳年○九十二(?)年再造立古宮南渓七間十五間山切開人歩二千八百余普請人足千五○○」とあり、表面には「皇帝萬歳臣統千秋、神風永扇威光倍増、風雨以時災害不起、五穀成熟萬民○○、寺院安全興隆佛法、檀信帰崇諸縁吉利」等の記載が見られ神仏習合当時の信仰の様子が窺えます
と、あります


社務所に掲示された舟城神社のご案内


この神殿は、寛延二年(1749) 祇園牛頭天王社として奉建されました。 素戔嗚尊と牛頭天王の神仏集合です。 昔神社の鳥居前に牛市場があり、耕作用に各農家で牛を飼っていたので、牛神さんだと牛を連れての参拝で賑わっ ていました。子牛が当たる富くじなどもあったそうです。 本当はもともと疫病退散の祇園信仰で、二〇か村がお金を出し合い建立した神殿でした。 本殿には、牛に乗った須佐の男命の御神像と、牛に乗った薬師如来像があります。やはり牛との縁は切れないよう ですね。 境内の桧一六〇本を売払い樫材木を買い集め、なおも篤心者のご寄付を頂き、人足二、八〇〇余人で山を切り開き、 普請人足一五〇〇人余永えいとして七年の歳月をかけて完成した神殿です。機械のない時代に凄い労力ですね。 昔の人は偉かったですね。
賽銭箱から手前に伸びる向拝部は、その一〇八年後(1857)に延長して作ったものです。 木鼻やその他を飾る彫刻も見どころの一つです。同じ中井家の彫刻師の作風も一〇八年の時代の流れがみられます。 本殿は神の宿る完成した彫眼聖獣で枠にピッタリおさまっているのに対し、向拝の彫刻は今にも飛びかかるかの力をためた手足の筋肉、ガラスの光る目で人を威喝する形相で、枠から飛び出そうとする姿、その差も面白いと思い ます。本殿が真北を向いているのもめずらしい神社です。 来年令和三年は図らずも丑年にあたり、残念にも疫神の怒りか北の方角は金神病符でよくありません。御祭神に日 頃の健康を感謝してコロナ感染症厄疫消除をお願いしてください。 本殿の右手に見える大きな屋根は江戸時代からの天王山覚王寺の事務取処と本堂の建物です。 今は神社の社務所として使用しています。住宅としては不向きですよ。



手水舎

嘉永二(1849)とある


神社の神様のお姿

見上げてください↑(上写真)

社務所
社務所・庫裡には、中井青龍拳の銘がある品があります(装飾彫刻探訪記掲載)

文化財に指定された棟札には残されいる記述には本殿の創設、再建の年号がある
私なりにまとめてみました

社務所に掲示された舟城神社のご案内と、棟札から記述(舟城神社由緒による)、四つの年号がわかる

・創建は文安三年(1446年)
・萬治元年(1658年)初代教明和尚により古社再建
・この神殿は、寛延二年(1749) 祇園牛頭天王社として奉建
・向拝部は、その108年後の安政四(1857)に延長して作った


この神殿は、寛延二年(1749) 祇園牛頭天王社として奉建の記述からみて、本殿彫刻は、先人の記述にもありますが、柏原、中井言次君音定忠 (享保7年(1722)~-天明7年(1787没))の手になるのではと思われます

その108年後の安政四(1857)に向拝が増設された年号からみると、その時代に該当するのは、七代目権次橘正次(文政五(1822)~明治16(1883))ではないか?

そして、庫裡の欄間の鶴には、柏原青龍軒の刻銘があるが、これは、五代目・丈五郎橘正忠(1750年~1818年)屋号に「青竜軒」を用い、以後代々引き継がれているため五代目以降です


なんだかんだ一人推察をし、想像して楽しんでいますが、いかに!!


いや~ 実に楽しいですね


久しぶりの舟城神社での新しい情報もしりえました

残念ながら、手水舎付近にいて、吠えられるワン公はいませんでした
元気にしてるのかなぁ?

また、伺いましょう…



本殿、彫刻は、中井権次一統の世界にて…
https://nakaigonji.blogspot.com/2024/03/blog-post_25.html









2019年5月13日

出石城下町を散策します・・・近畿最古の芝居小屋、永楽館へまいります・・・兵庫県豊岡市出石町柳17-2

出石を彩る近畿最古の芝居小屋「永楽館」を訪ねます・・・県指定重要有形文化財です

永楽館は2018年4月に・・・今回は嫁を連れての見学です
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2018/04/17-2.html
前回とできるだけ、違う写真を掲載したいと思っていますが・・・

表・・・左の戸が正式な入り口ですが、今は、左側の路地を入ったところが、木戸口です

桂米團治独演会のポスターもありますね




今回は舞台に、高座がありますね

係員さんに許可いただき、高座へ座らせて頂きました
嫁・・・桟敷に座り・・・
・・・え~、ようお越しを、毎度馬鹿馬鹿しいおはなしを・・・と、云ってしまいました(笑)

なかなか、よき眺めでした


この看板の数社は現存しているようです

花道・・・スッポン
・・・花道の七三の位置(舞台寄り)にある小型のセリです
永楽館では、花道下の通路で役者を乗せ、人力で担ぎ上げます
主に幽霊や妖怪・妖術使いなどの役が登退場する時に使われます


     ぶどう棚・トラス

舞台天井に丸竹を縄で格子状に組んだもので、幕を吊ったり、上から雪や花吹雪などを散らす。永楽館の場合、さらに役者が宙吊りできるような大きな仕掛けが、ぶどう棚の上に取り付けてある。また、トラスとは洋風の工法で、材木を三角に組み合わせることによって、強い骨組みを作ることができる


太夫座・・・
舞台上手にある小部屋で、階上は太夫座と呼ばれ、義太夫の演奏者がいます。演奏時は、その床が前方にせり出す構造になっています。階下は嚇子場で、三味線や太鼓などの演奏者が出離子などを演奏する部屋です。

・・・出演者のサイン? いたずら書き?




二階の楽屋へ・・・
・・・役者さんの楽屋風景写真の写真?

二階楽屋前から桟敷を眺めます

ここにも・・・かしまし娘の正司ハナエさん 三人娘の末っ子ですよね

今は使われていないとのこと・・・五右衛門風呂


    奈落から花道への階段


永楽館の舞台は、床が丸く切り抜いてあり(直径6.6m)廻すことが出来ます
この床の上に二場面、または三場面の大道具を準備し、舞台転換に用います
舞台下には奈落があり、人力で廻します
また、「セリ」と呼ばれる廻り舞台の一部が上下する仕組みもあり、役者の出入りに使用します


出演・出勤簿? 自分の名の上の穴に棒を挿すらしい

      こんな趣のある「永楽館」木戸口前です
    

外人観光客は、ほとんど来ないらしい・・・
・・・足の便が悪いとのこと・・・城崎温泉は人気があるのにね
むずかしいですね・・・観光地も!


追記:四回にわたる、出石を巡る備忘録でした





2018年11月26日

島根県津和野町への旅・・・津和野、殿町通りを歩きます・・ 島根県鹿足郡津和野町後田ロ

秋、行楽の時季、山口県萩市、島根県津和野町への2泊3日の旅しています・・・
山口県萩市から、島根県津和野町へやってきました・・・


上案内板、部分拡大・・・赤四角部分を巡ります


山陰の小京都・・津和野
津和野は、山あいに白壁と赤瓦の家並みがつづき、西に山城の跡が見える城下町です。
汽笛は山にこだまします。
・・・狭い町です。
・・・歩いてください。
・・・と、案内にあります

「配布観光パンフにあった殿町通り付近図」


殿町通りを歩きます

殿町・・観光案内には・・
・・・養老館跡や町役場・多胡家老門など、むかしの門構えとなまこ塀の家が並んでいます。
カトリック教会も殿町の景色の中にとけこんでいるようです。
道沿いの掘割には、しようぶが咲き、錦鯉が群れています。
西の端は大橋です。
むかしに較べて川の水量が減りましたが、橋の下には鯉やうぐいが泳いでいます・・と


花菖蒲が咲いていれば、津和野町、パンフにもあるようなの絵になりますね

まるまると太った、観光大使?「鯉」です


この四角、交差点がメインかなぁ?  南南西側をみると・・・

早朝・・・観光客の人影はありません 北北東側をみると・・・



国登録有形文化財・・・津和野町役場(旧鹿足郡役所) 大岡家老門



この建物は大正8年(1919)に鹿足郡役所として建てられた。郡役所の制度が廃止され、一時警察署として使用されたが、昭和30年(1955)の町村合併で津和野町役場となり現在も現役の役場庁舎として使われている
外観は今日まで大きな改変はなく当時の面影を良好に残している。
大正期に流行した和風公共建築で、木造瓦葺平屋建。両脇の部屋は全面にせり出し平等院鳳凰堂をイメージした外観となっている。
表門は家老大岡家の正門が明治の初めに取り外され、保存されていたものを、昭和50年代に今の場所に戻し、併せて周囲の土塀も復元された。
前面の殿町通りは江戸期の面影うぃ良好に残しており、はじめは道の西側(役場側)にのみ水路があったが、明治18年(1885)の国道整備に伴い、新たに道路両側に水路が整備され現在の姿になった。
津和野のイメージにもなっている鯉は、民俗学者宮本常一の提案によって、昭和9年(1934)に放流されたものが今日の姿のはじまりである。水路は花菖蒲も植栽され、今では津和野にはなくてはならない殿町通りを彩る名所となっている。





養老館


概要
藩校養老館は、津和野藩主亀井氏8代矩賢により、天明六年(1786)に創設され、儒学を主として漢学、医学、礼学、数学、兵学などが設けられていました。
その後11代茲監は寛永二年(1848)に新たに国学や蘭医学を設け、規模を
拡大するとともに人材育成に力を入れました。
創設時の建物は、嘉永六年(1853)の大火で焼失してしまいましたが、安政二年(1855)に現在地に再建され、明治五年(1872)に廃校となりました。
ここは幾多俊才を輩出した藩校として名高く、西周(近代日本哲学の祖)、森鴎外などの人物が学びました
現在は、武術教場と、御書物藏の建物を含む敷地が当時のまま残り、県史跡に指定されています。



工事中でした・・・





県指定有形文化財・・・旧津和野藩家老多胡家表門



多胡家は、津和野藩の筆頭家老職を藩主亀井家11代にわたり務めた。
この門は同家の表門で、三間一戸薬医門、切妻造瓦葺で、寛永六年(1853)の大火後の建物である。左手に物見が、右手に門番詰所が残こる(いづれも入母屋造瓦葺)。
構造、意匠とも簡素な造ではあるが威厳ある江戸期の武家屋敷門の建築様式を今に伝えている。
敷地は背面に城山の裾野までであったが、大正期に国鉄(現JR)により、戦後には産業道路(現高岡通り)により分断された。敷地内には江戸時代の二階建ての屋敷と庭が残る。





国登録有形文化財・・・津和野カトリック教会




明治元年(1868)から明治6年(1873)まで長崎の「浦上四番崩れ」で捕らえられた
キリスト教徒計153人が、現在の乙女峠にあった光琳寺に幽閉され、「食責め」「氷責め」などといった拷問により37人の殉教者を出すことになった。
このような悲しい歴史を経て、昭和3年(1928)シェファー神父は、旧津和野町年寄であった堀家から用地と建物を購入し、幼花園と教会としたが、昭和5年(1930)に火災により焼失。
昭和6年(1931)幼花園と教会と神父館は再建された。キリシタン弾圧による殉教者を讃えるために建てられた建物は、津和野の歴史を物語るうえで貴重な建築物である。
教会は木造平屋建、鉄板葺きで、シンプルな図柄のステンドグラスを有する単塔式のゴシック様式である。

教会内・・・畳敷きですね




町並み・・・

和菓子店・・・登録有形文化財




その向かいのお宅も・・・

     白壁と赤瓦の家並みがつづき・・・


空の青、屋根の赤、松の緑、なまこ塀の白、銀杏の黄・・・イイすね!

定番・・・マンフォールです 

お世話になった、お宿・・「よしのや」

山陰の小京都・・津和野・・・
・・・一度は訪れたかった地、案内どうり、狭い町です・・・
早朝は、霧が立ちこめていました・・・観光客の影もないときに、ゆっくり散策ができました
今日も、良き天気です・・・
さぁ、次なる場所へ・・・続きます