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2025年12月29日

2025年・冬の旅行、名古屋、トヨタ産業技術記念館・繊維機械館です

 愛知県名古屋市西区則武新町 産業技術記念館内 トヨタ産業技術記念館です

名古屋を旅する際に車好きの私は、行ってみたいと思っていた場所でもあります
しかし、訪れると、いやいや、驚きのことばかり・・

「研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし」
トヨタ産業技術記念館は、トヨタグループの共同事業として、かつて豊田紡織株式会社本
社工場であったグループ発祥の地に設立されました。
建築史的にも貴重な赤レンガの建物を産業遺産として保存·活用し、近代日本の発展を支え
た基幹産業のひとつである繊維機械と、現代を開拓し続ける自動車の技術の変遷を紹介。「研究と創造の精神」と「モノづくり」の大切さを本物の機械の動態展示と多彩な実演を通じて伝えています。・・配布パンフより引用


入口です

パートナーロボットによるバイオリンの演奏の実演がありました
子供たちも聞き入っていましたね

トヨタ産業技術記念館は、繊維機械館と自動車館があります
入館料は必要です
すごい建物です、迷子になりそう!

まずは、繊維機械館です

近代化産業遺産 平成19年度 経済産業省
当館の基本理念のシンボル「環状織機」 (1906年発明)

この織機は、「研究と創造の精神」と「モノづくりの大切さ」を基本理念とする当館を象徴的に示す展示物です。
運動の理想を追い求めた豊田佐吉が、研究と創造に挑み、明治39(1906)年に発明した、円運動で布を織る、極めて理想的な機構の織機です。
動力を空費することなく、超広幅の布を、静粛に織ることができる、「夢の織機」として世界的に評価されました。
展示機は、大正13(1924)年に製作し長時間テストを行った唯一の完成機で、日本の世界的産業技術遺産といえます。


来館時、実演時間に間に合ったので、動作、説明を聞かせてもらいました
上の筒状のものが織り上げられた実物
?なんだが、緯糸が円を描くように回り進み、筒状の布が織り上げられるのです?
(ちと、理解不明なのです)


The Birthplace of TOYOTA

綿花

道具の時代の綿を糸にする在来技術

綿から糸をつくるには、綿の実から種を分離し、絡み合っている繊維をほぐしてつむぎやすくしたものに、よりをかけて糸にします。
19世紀中ごろには展示のような道具を使って糸がつくられました。


近代化産業遺産
日本の産業近代化のさきがけ的発明
無停止杼換式豊田自動織機(G型)(1924年)

豊田佐吉が環状織機とともに究極の発明目標に定め、1924年に発明·完成させた、無停止杼換式豊田自動織機の第1号機で、記念的な産業技術遺産です。
50余件の発明にもとづき、完全なる営業的試運転を重ねた、24の自動化、保護、安全装置で構成され、世界一の性能を発揮し、世界各国の繊維産業の発展に寄与した。



織機技術の発展

紡機で作られた「糸」を使って「布」を織る織機。
こでは人力織機から最新の織機まで、本物の織機を動かして布のできあがる工程を見比べる
ことで、技術の移り変わりと人間の英知を肌で感じられます。





すごいの一言です

車のシート

織機
まったく知りません
織り機の仕組みは、縦糸(経糸)を上下に開いて隙間(杼口)を作り、そこに横糸(緯糸)を杼(ひ)やシャトルで通し、筬(おさ)で打ち込んで布を織り上げていくものです。この開口の動きを綜絖(そうこう)という装置で制御し、足元のペダル(踏み板)やレバーで操作することで、緯糸を交互に通し、縦糸と緯糸を交錯させて布を形成します。と、Aiの説明

驚きの技術
いまや、その緯糸を通す方法が、高圧の水、そして高圧のエアーを使う

展示実演:豊田エアジェット織機 JA910(ジャガード仕様)
2003年発売以来、20年連続して世界シェア. No.1(当社調べ)を獲得し続けていると・・

残念ながら写真はない!夢中で、パチリ忘れた!

その織り機の実演を説明を交えて拝見しました

すごいの一言
しらないことばかりですが、世界シェア. No.1を誇る技術は、さすがTOYOTAさん


では、自動車館へ














2025年12月28日

2025年・冬の旅行、名古屋城・西の丸御蔵城宝館

本丸を、金の鯱鉾を見てきました
あのどでかい、天守閣を眺め、石垣に見とれ、堀端を歩き一周して、西の丸に戻ってきました


西之丸の米蔵と御蔵構
西之丸には、尾張藩の備蓄米を保管する米蔵が6棟ありました(一番御蔵~六番御蔵)。米蔵が立ち並ぶ空間は御蔵構と呼ばれ、食糧を貯蔵する大切な場所として、周囲は高塀や蔵の壁によって閉じられ、御蔵御門によって出入りは制限されました。
米蔵は大正時代までにすべて取り壊されましたが、三番御蔵と四番御蔵は蔵の外観を復元しています(西の丸御蔵城宝館)。他の4棟の米蔵と御蔵御門(礎石)、水道は、発掘調査や文献史料に基づいて、現地に位置を表示しています。



西の丸御蔵城宝館 (三番御蔵と四番御蔵は蔵の外観を復元)

西の丸御蔵城宝館 入口
正直、入口が分かりづらかったね、そして、開館? 迷いました


今回、展示物で撮影禁止以外をできるだけパチリしました
なかには国重要文化財もあります
よき、記念になりました

各説明は、展示品の説明板より、文字起こししています
説明と写真の不一致あれば、ご容赦を!


いきなり、鯱鉾

名古屋城の銅鯱
名古屋城の天守の上で輝く金だけではない。
ここに展示する3基の銅はじめ、複数の銀が現存する。 ただしいずれも名古屋城創建時のではなく、 明治43年(1910)、旧江戸城(現皇居)から移されたものである。
その頃の名古屋城は、名古屋離言と呼ばれ、明治天皇・ 皇后・皇太子が行磨されるときの御泊所として宮内省に管理されていた。 明治43年、旧江戸城の池御用が、行啓時のとして名古屋城西之丸の現正用の位置に移設 され、屋根の上には池御用の銀が掲げられた。 その他の旧江戸城も同時に移され、本丸の小天守、西隅櫓、東南隅櫓、東北信壇、表一之門、東 一之門、そして御深井丸の西北隅櫓に上げられた。
昭和20年5月14日の空襲により、正門はじめ名古屋城 の国宝建物の大半が炎上したが、いくつかの鯱鉾は大きく損傷しながらも姿をとどめた。これらこそ、明治以降名古屋城がくぐってきた数奇にして過酷な歴史の証人である。



旧国宝 名古屋城 表一之門 北方銅鯱


万治3年(1660)渡邊正俊·正次作 青銅製 名古屋城総合事務所蔵
銘「萬治三年庚子二月吉日 御鑄物師 銅意法橋 同子渡邊近江大掾源正次」
「明治四十三年三月自東京城移之」·「宮内省御用達 野田平吉 代人 田中嘉策」


もと江戸城の銅鯱で、明治43年、名古屋城表一之門の屋根上にすえられた。昭和20 年の空襲で表一之門が炎上した際、類焼した。炭化した木材や鉄の薄板が口の奥にあり、移築時に新調された部材と考えられる。
このような部材が残る銅鯱は他になく、鯱の据え方を伝えてくれるとともに、空襲のすさまじさを生々しく訴えている。総重量230kg。  名古屋市指定有形文化財 令和7年新指定


下写真、拡大すると、文字が認識できて、「万治」という年号に驚かされる


国指定重要文化財 対面所次之間南側「風俗図〔石投·山伏〕」
江戸時代 慶長19年(1614)
次之間と入側(廊下)を仕切る障子の腰板に絵を描いた紙を貼り付けた障壁画です。右側の2面は和歌浦に続く岸辺で遠くを眺める人物と、海に石を投げる男たちがいます。岸辺に自生する松は、岩絵の具の緑青で松葉まで細かく描かれています。
南面障壁画の左2面から東面襖(出品番号2)にかけて、場面は和歌山城下へと移ります。ここでは山にこもって修行をする山伏が城下を訪れた様子が描かれます。



国指定重要文化財 上洛殿一之間天井画
9「松に小禽図」 10「竹図」 11「梅図」江戸時代 寛永11年(1634)


おめでたい植物としてお正月飾りの定番の松、竹、梅をそれぞれ描いた天井画です。これらの植物は歳寒三友といいます。寒い冬にも青々と茂る松と竹、春の訪れを告げる梅の花は、厳しい寒さに耐える高潔な植物として好まれてきました。
3面ともに墨でモチーフを描き、部分的に金砂子を散らします。
「松に小禽図」はさな鳥が車輪状に広がる松葉に飛んでくる様子を描きます。
「竹図」は『小えて繁茂する竹をあらわします。
「梅図」は梅の枝先のみを描き、枝にはかっくらとした花弁の白梅が咲いています。

「梅図」



「竹図」

「松に小禽図」

国指定重要文化財 対面所次之間東側「風俗図〔綱引·見世物〕」
江戸時代 慶長19年(1614)

和歌山城下が描かれます。注連縄や左義長を作る人や、羽根つき、綱引、毬杖で遊ぶ子どもたちが描かれ、正月の情景を伝えます。門前では千秋万歳が披露され、見世物小屋では太刀の抜身と片手逆立ちの綱渡りが行われています。見世物小屋の中には観客が集まり、木に登って見物する者まで現れます。
左側2面に描かれた海は吹上浜と見られ、和歌山城以南の景色が広がります。



名古屋市指定有形文化財 12 享元絵巻 江戸時代中期


東海道鳴海図 
2代目歌川国綱筆 江戸時代後期 名古屋城振興協会蔵

14代将軍·徳川家茂(1846~1866)による文久3年(1863)年の上洛を描いた錦絵シリーズ「東海道名所風景」(または「御上洛東海道」)の1枚です。鳴海宿は、現在の名古屋市緑区に
位置する東海道 40 番目の宿です。店先には有松·鳴海絞りの着物が並んでいます。行列の行く先に名古屋城の天守が見えることから、一行は北へと向かっているとわかります。



柳薬師納涼図
高力猿猴庵筆 江戸時代後期 名古屋城振興協会蔵

広小路にあった新福院は柳薬師と呼ばれていました。毎年5月18日から7月7日まで夜間開 帳が行われ、開帳には多くの人でにぎわったと伝わります。本作は高い視点から景観を広くとらえた
鳥瞰図で、出店や見世物に人々が集う様子が描かれています。
筆者の高力猿猴庵(1756~1831)は自ら挿絵を手掛け、数多くの日記や著書を記しました。


名古屋誕生 徳川家康の大号令
威信をかけた 最大級の城



家康が徳川政権を盤石なものとするため、最先端技術を結集してつくらせました。
名古屋城の石垣普請は豊臣恩顧の大名を 含む20家の大名に割り当てられ、多くの人々が名古屋に集められました。慶長15 (1610)年6月より石垣普請は開始され、同年8月末には加藤清正が天守台の石 を完成させています。他の石垣も同年9 月頃におおむね完成し、翌年正月より中井 正清を大工棟梁、岡部又右衛門を大工頭、 小堀遠州を作事奉行として建物の建設が始められました。

同時に清須城の解体も進められ、部材の 一部は名古屋城の建物に再利用されまし た。家康は御殿より天守の建設を急がせた ことで、天守は慶長717(1612)年12月 2日に完成し、本丸御殿は慶長20(元和元・1615)年に完成しました。



天然記念物 名古屋城のカヤ
名古屋城のカヤは、高さが16m、幹回りが9mある市内有数の巨木です。
江戸時代に編まれた『金城温古録』によると、1610年(慶長15)の築城開始以前からこの地にあり、長生きする神聖な樹木として残されました。その実は縁起のよい食料として、歴代の尾張藩主も食したと伝わります。
こうした歴史や由緒から、1932年(昭和7)に国の天然記念物に指定されました。1945年(昭和20)の名古屋空襲で被災しましたが、その後生育状況は回復しています。



お土産さんの「御城印」 記念にパチリです

西の丸

三回に分けて、名古屋城を記事にいたしました

名古屋城、でかい、広い、みごとに尽きます
私の外せない、見逃せない、この眼で見ておきたいものの一つの名古屋城
これが達成できたので、満足です、
本丸御殿の絢爛豪華な襖絵など、戦災の折、この襖絵など一部を退避保管したとのこと
いやいや驚くことばかりでした

願わくば、本丸天守閣の早期復興です
難しいかなぁ?












2025年12月27日

2025年・冬の旅行、名古屋城、本丸です

名古屋城、絢爛豪華な本丸御殿を堪能いたしました
「名古屋城 本丸御殿」 ← こちらからどうぞ!

いよいよ、徳川家康が威信をかけて、築城した城を拝見します
しかし、残念ながら現在、耐震に問題があるので2018年から天守閣には入ることができません
それでも見所満載のお城、本丸です

特別史跡 名古屋城
名古屋城は、徳川家康の命により主に西日本の大名20家を動員した公儀普請によって1610年(慶長15)に着工されました。金鯱を持つ巨大天守や絢爛豪華な御殿がある本丸を中心に、二之丸·西之丸·御深井丸の他、大手馬出·搦手馬出·塩蔵構が置かれ、さらに外側を三之丸で防御した国内屈指の名城です。1615年(慶長20)以降、約260年間にわたり尾張藩61万500石の政庁、家康の9男義直を初代とする尾張徳川家16代の居館として機能しました。
1871年(明治4)の廃藩置県後は陸軍省の所管となり、城内に陸軍施設が建てられたものの、天守·本丸御殿などの主要な建造物は日本城郭の見本として姫路城とともに保存されました。1891年(明治24)の濃尾地震の被害復旧後、本丸·西之丸·御深井丸は1893年(明治26)に宮内省所管の名古屋離宮となりました。
1930年(昭和5)に名古屋離宮は廃止となり、名古屋城の本丸などは名古屋市に移管された後、1931年(昭和6)に一般公開されました。天守·本丸御殿など24棟は1930年(昭和5)に城郭建造物として初の国宝(旧国宝)に指定された他、城跡は1932年(昭和7)には国の史跡、1952年(昭和27)には特別史跡に指定されています。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)5月14日に行われた名古屋空襲で、天守·本丸御殿などの国宝建造物20棟が焼失する甚大な被害を受けましたが、1959年(昭和34)に天守閣·小天守閣·正門が外観復元され、2018年(平成30)には本丸御殿が木造復元されました。



正門(旧江戸城蓮池門) 1911年(明治44)移設/1959年(昭和34)外観復元

正門(旧江戸城蓮池門)
1911年(明治44)移設/1959年(昭和34)外観復元

現在の正門の位置には、榎多門という名の門がありました。明治維新以降に一之門、二之門
が次々と撤去され、1911年(明治44)に名古屋離宮の正門として旧江戸城蓮池門が桝形の
石垣を広げて移設されました。1945年(昭和20)の空襲で焼失しましたが、1959年(昭和34)
に鉄筋コンクリート造で外観復元されました。




西の丸へ入ります

西の丸から本丸へ向かいます

重要文化財 西南隅櫓(本丸未申櫓)
1612年(慶長17)頃完成/1923年(大正12)復興修理
二重三階櫓 高さ約14.1m


西之丸から本丸へ侵入する敵を迎え撃つ位置にあり、江戸時代中期まで歴代城主の甲冑も保管していました。一階に屋根がないため二階建てに見えますが、内部は三階建てです。
二階西面と南面には入母屋造りの屋根を載せた出窓があり、その床下に石落し(下方の敵を鉄砲で撃つ開閉式のすき間)を設けています。二階南面の屋根に格式の高い軒唐破風(軒先を丸くそり上がらせた屋根飾り)を重ねています。1921年(大正10)に石垣が崩れて倒壊しますが、その後、宮内省により修復されたため、丸瓦には徳川家の葵紋ではなく天皇家の菊紋がかたどられています。


望遠がないため、トリミングしてみました
・宮内省により修復されたため、丸瓦には徳川家の葵紋ではなく天皇家の菊紋がかたどられています。


堀、眺めれば、「鹿」がいた!
うん? 野生か? それとも雑草処理班?


わかりましたよ!
・名古屋城の内堀(西南隅櫓側)には、2頭の鹿が生息しています。
名前は「もみじちゃん」と「やまむらちゃん」・・と、説明を発見!

貴重な一枚になりました



さぁ、本丸です
本丸御殿は、前の記事で記しました
「名古屋城 本丸御殿」 ← こちらからどうぞ!

重要文化財 東南隅櫓(本丸辰巳櫓)
1612年(慶長17)頃完成・二重三階櫓 高さ約13.9m


天守と同じ1612年(慶長17)頃に完成し、当時のまま現存する3つの隅櫓のうちのひとつです。櫓とは、戦時は見張りや防御の施設であり、名古屋城では平時に主に倉庫として使用され
ました。東南隅櫓は、本丸の東南角の位置で二之丸に面して建ち、二之丸に侵入した敵から城で最も重要な本丸を守る役割を担いました。西南隅櫓と同じく他の城の三重天守並みの
規模があります。一階に屋根がないため二階建てに見えますが、内部は三階建てで、非常に珍しい形式です。屋根上の銅鯱は、1910年(明治43)に旧江戸城から移設されました。



天守閣と小天守
大きすね! 
天守、延べ床面積 日本史上最大

二ノ丸広場に行ってみます

清正石
横幅6×高さ2.5メートルの名古屋城の石垣で最大の石です。石垣づくりの名手とされる加藤
清正が巨大な石を運んだという伝承があったため、名古屋城が一般公開された1931年(昭和6)以降に「清正石」と名付けられました。
ただ、石垣工事では大名家ごとに持ち場が割り当てられており、この場所の石垣を実際に
築いたのは黒田長政です。

石垣といえば、矢穴
石在を割る際のクサビの跡
慶長時代(1610)はその幅は広く、宝暦(1752-1756)になれば技術も進歩して狭い
これみれば、石垣の時代がわかるらしい 

 
 
本丸東一之門跡 1612年(慶長17)頃完成/1945年(昭和20)焼失

以前は二之丸の東側にあった東鉄門の二之門(外門)です。
1963年(昭和38)、二之丸に旧愛知県体育館が建設されることになり解体されましたが、保存されていた部材をそのまま使い、1972年(昭和47)に、本丸東門の二之門(戦災焼失)が
あった現在地に移築再建されました。門柱や扉に飾りとして筋状の鉄板が打ちつけられています。この場所にあった本丸東門は、櫓門である一之門と、高麗門である二之門との二重
構えの門で囲む形門を構成していましたが、いずれも空襲で焼失しました。



重要文化財 旧二之丸東二之門

1612年(慶長17)頃完成/ 1972年(昭和47)移築再建 高麗門形式
以前は二之丸の東側にあった東鉄門の二之門 (外門)です。 1963年(昭和38)、 二之丸に旧愛知県体育館が建設される ことになり解体されましたが、 保存されていた部材をそのまま 使い、1972年(昭和47) に、 本丸東門の二之門 (戦災焼失)が あった現在地に移築再建されました。 門柱や扉に飾りとして筋状の鉄板が打ちつけられています。 この場所にあった本丸
東門は、櫓門である一之門と、 高麗門である二之門との二重構えの門で囲む桝形門を構成していましたが、いずれも空襲で 焼失しました。



左:清正石 枡形虎口

天守·金鯱
1612年(慶長17)完成/1959年(昭和34)外観復元
外観五重·地下一階 建築高36.1m·総高(石垣含む)55.6m
二代目金鯱総高 北鯱(雄)2.621m·南鯱(雌)2.579m

大天守は地上五階地下一階建てで、史上最大の延床面積を持ち、上質な木曽檜が使われていました。破風(三角や弓形の屋根飾り)は国内の城で最多の22を数えます。金鯱は北側が
雄、南側が雌と言われ、大きさとデザインが異なります。鯱は頭が龍、胴が魚という空想の生物で、火災を防ぐ守り神として飾られました。創建時の金鯱には慶長大判1,940枚、重さ215.3キログラムの金が使われていました。天守·金鯱は1945年(昭和20)5月14日の空襲で焼失しましたが、1959年(昭和34)に鉄骨鉄筋コンクリート造で外観が復元されました。


重要な天守台の石垣は、城づくりの名人とされた加藤清正が担当したとあります


金の鯱鉾
この鯱鉾は本当の金で、戦前、盗人がいて、鱗も剥がして持ち逃げしたと!
空襲の火災で金が溶け落ちたのだが、大半は米軍が持って帰ったらしい
一部、名古屋市職員が確保してあったと、TV放送で説明がありましたね

金の鯱鉾を調べてみました・Aiによれば

金の鯱鉾の素材と量
素材:18金(純度75%)の金板
総重量:雌雄合わせて約88kg
純金換算:約66kg

初代と再建された鯱鉾
初代:慶長大判約1,940枚分(純金換算で約220kg相当)が使われたと
再建:1959年(昭和34年)に大阪造幣局の協力で復元され、現在のものが使われています

金価格によって変動しますが、製造コストも含めると、数十億と放送ではいわれてました


石垣の石には様々な印が刻まれています。「刻印」「刻紋」と呼ばれ、石垣を築いた諸大名が自分の運んだ石に刻んだ印とされます。藩同士の石の所有を巡るトラブル防止の意図があったと推察されます

刻印を探すのも楽しかったです


下、石垣の赤い部分は、空襲の火災の折、焼けた石と・・

天守閣北、御深井丸に行きます


御殿椿

かつて本丸御殿の南庭には「大城冠」という品種の椿の古木がありました。1945年(昭和20)の空襲で本丸御殿とともに失われたかに思われましたが、焼けた幹から新たに伸びた芽を育てて、不明門内に植えました。成長した椿は、例年3月中旬~4月上旬に八重咲き大輪の白い花をつけ、今も城内を彩っています。



不明門・1612年(慶長17)頃完成/1978年(昭和53)復元
本丸と御深井丸をつなぐ門で、常に鍵がかけられていたため「あかずの門」と呼ばれ、本丸の
非常口としての役割を担っていました。土塀外側の屋根に槍の穂先を並べて侵入を防ぐ工夫が
こらされています。1945年(昭和20)の空襲で焼失し、1978年(昭和53)に復元されました。


名古屋城の石垣は、築城から現在まで何度か積み直しが行われてきました。江戸時代の代表的な修復は、宝暦の大改修時の天守を引き上げて行った積み直しです。ただし、記録が少なく不明な点も多くあります。1970年(昭和45)の崩落をきっかけに、その後継続的な石垣の修復整備が行われています。


天守礎石

昭和二十年(一九四五)に焼失し 旧国宝天守の礎石。地階穴 蔵の地盤の上に置かれており、 巨大な天守を支えていた。長く 焼け跡に残っていたが、天守閣 再建にあたり現在地に移し、か つての穀設状況を再現した。






  天守の石垣

天守の石垣は、上部が外側に そりだすいわゆる扇勾配であ り、石の重みや土の圧力がたく みに分散されるため、はらみに くく、しかも美しい。

北西からの姿


剣塀

大天守と小天守を連結する櫓 台は、高い土塀で囲われ、塀の 軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと 並べられている。大天守への敵の 侵入を防ぐもので、剣塀と称 されている。



鵜の首


鵜の首とは、握を内側に入れこ み道幅を狭くした部分、本丸 の周囲には、大手・搦手など 五か所に鶴の首があり、本丸へ の敵の侵入をはばんでいた。


南西からの姿

六番御蔵

六番御蔵は、1834年(天保5)に建てられた米蔵です。発掘調査により、柱の下にある礎石
の配置が分かりました。また、蔵の東辺と南辺の一部には、礎石と礎石の間に、四角錐状の石
(間知石)を地覆石(地面に接する部分に置かれる石)として使用していることが確認できました。礎石や地覆石が見つかったことにより、建物の位置や規模(南北38.6m、東西8.0m)
が推定できます。
発掘調査で見つかった蔵の跡は土で保護し、その上に礎石や地覆石を模した石材を並べて
再現しています。


諸輪の松

名古屋城には、諸輪村(現在の愛知県東郷町)から2度贈られた松の逸話が伝えられています。 築城時の1615年(慶長20) に、 惣御土居(現在の三之丸外堀)に植えられた記録が残っています。 その後、寿命や 台風などで減少しましたが、1962年(昭和37)、再建された名古屋城のために再び諸輪地区から寄贈 されました。

いやいや、立派なお城ですね
大阪城、姫路城と何度も見てきましたが、尾張名古屋は城で持つの言葉どうり、お見事です

開門と同時と入城しましたから、ゆっくり周れましたが、外国人の団体はやはり多かったです

次は西の丸御蔵城宝館へまいります




追記:記事中文言に名古屋城案内から引用いたしております