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2026年5月24日

諏訪大社本社上宮、幣拝殿の彫刻とその工匠

神社仏閣の彫刻には興味があります
中井権次一統で、いろいろみてきましたが、それは兵庫県、ここは長野県
さて、どんなすばらしい彫刻があるのでしょうか?

諏訪大社、幣拝殿の彫刻とその工匠は上諏訪の人、幕府から内匠の称号を許された名匠二代立川和四郎 富昌の名が説明にあり、その名について調べたものを記事にしてみました

諏訪大社上社本宮の拝殿は「諏訪造り」
拝殿の後ろに幣殿が並び、その左右に片拝殿が伸びる造りの社殿で、屋根は檜皮葺の工法で葺かれており、拝殿の正面は丸みが特徴の向唐破風造りです
社殿は北西向きに鎮座していて最大の特徴は本殿がないことです

片拝殿の右側は左片拝殿、左側は右片拝殿です
どちらも桁行正面二間背面三間·梁間二間で切妻造りです

幣拝殿
正面から全景を!

幣拝殿には「龍」や「雲」片拝殿には「笹に鶏」「粟穂に鶉」の彫刻が施されています
特に「笹に鶏」「粟穂に鶉」は立川流の最高傑作ともいわれています

拝殿下に施された「波と千鳥」の彫刻は、立川家の家紋のごとき殊芸とも言われるほど、素晴らしいと評判です。


左片拝殿

右片拝殿

今回、望遠レンズを持参していなく、24-70mm フルサイズで撮影、トリミングしました
脇障子も拡大すればわかりますが、上の写真では??って感じです


名匠二代立川和四郎 富昌の作

以前の本宮の社殿類は極彩色ゆたかな建造物でしたが、1582年に織田信長の軍勢によって焼き払われてしまいました。
その後1584年に仮殿が造られ、1617年には地元の宮大工によって再建されたそうです。

そのさらに約200年後に諏訪藩主によって社殿の改築が行われました。
改築に際しては二代目立川和四郎富昌が、次男の富種や地元神官寺の宮大工五左衛門親成と共に、8年もの歳月をかけ1838年に落成したものです。
立川流の代表的建築物と言われています。


ここに登場した「立川流」 知りません!
では、調べてみましょう
以下はGeminiによる検索から抜粋です

二代 立川和四郎富昌(1782年 - 1856年)は、江戸時代後期に活躍した伝説的な宮大工であり、天才彫刻家です。

信濃国諏訪(現在の長野県諏訪市)を拠点に全国に名を轟かせた大工集団「立川流」の最全盛期を築き上げ、宮彫り(神社仏閣の木彫り装飾)の歴史において「東の志村、西の宮馬、それらを凌ぐ立川」とまで称賛されました。

彼の生涯と、歴史に残る名作

 1. 富昌の生涯と「立川流」

立川流は、初代・立川和四郎富棟(とみむね)が京都の彫刻技術を学び、諏訪で興した流派です。富昌はその長男として生まれ、幼い頃から厳しく技術を叩き込まれました。

彼が頭角を現したのは、江戸の幕府作事大工(幕府お抱えの最高峰の職人集団)のもとへ修行に出た時のことです。ここで江戸の粋なスタイルと洗練された彫刻技術を吸収した富昌は、地元に戻ると初代を凌ぐ圧倒的なセンスを発揮し始めます。

富昌の凄みは、「卓越した図面設計能力(建築)」と「生命が宿るような写実的表現(彫刻)」の両方を一人で完璧にこなした点にあります。当時のライバルであった「大隅流」と激しい技の競い合いを演じながら、神社の建築美を極限まで高めていきました。

 2. 富昌の彫刻の特徴:生きた木彫

富昌の彫刻の最大の特徴は、圧倒的な立体感とリアリズム(写実性)です。
それまでの平面的な浮き彫りとは一線を画し、木の中に完全に空間を作り出す「透かし彫り」を多用しました。


 3. 代表的な名建築・傑作

富昌が手掛けた建築や彫刻は、現在その多くが国指定重要文化財に指定されています。

この幣拝殿、富昌の最高傑作にして、立川流の最高峰とされる建築です。父である初代・富棟が手掛けた「春宮」と同じ図面をベースにしながら、二代富昌はさらに大胆で緻密な彫刻を各所に配置しました。特に「幣拝殿」の随所に施された彫刻群は圧巻の一言です。

 建物では日光東照宮以来の幕府大造営となった静岡浅間神社は初代立川和四郎富棟、二代富昌、三代富重と親子孫立川家三代の期間にわたって造られた。
その他、長野善光寺、京都御所、静岡秋葉神社本宮、諏訪大社上社、豊川稲荷、山車では亀崎の山車、高山の山車などが代表的で、現在多くのものが国や県の文化財に指定されている


大隅流と江戸立川流
大隅流は平之内大隅守がおこした流派で、幕府御用として、日光東照宮や湯島の聖堂などの造営にあたった。宮彫として流派を完成させたのはこの大隅流が最初であり、完成された宮彫の原点ともいえる。
その大隅流から、分派したものに江戸の立川流があった。棟梁を立川小兵衛といい、江戸の本所立川通りで居をかまえていたことから、立川(たてかわ)流とよんだということである。その後、江戸の立川流も発展し、幕府御用となった。

諏訪の立川流
信州諏訪に桶職である塚原家があった。その子どもに和四郎がいた。これが通称「諏訪の和四郎」とよばれ、後の諏訪の立川流棟梁となった立川和四郎富棟である。
和四郎は延享元年(1744)に生まれた。幼いころから絵画を好み、いっこうに家業の桶職を継ごうとしなかった。ある日、和四郎は思いたって宮大工の修業をするため、江戸に出ていった。江戸に出た和四郎は幕府御用の宮大工棟梁立川小兵衛富房のところへ弟子入りした。
和四郎は天性の才を発揮し、めきめき腕を上げていき、棟梁の立川小兵衛に認められるところとなった。立川姓を許され、立川和四郎富棟と名のることとなった。立川小兵衛は和四郎を自分の後継ぎとして、江戸立川流棟梁となるよう勧めたが、和四郎はこれを断り、郷里信州諏訪に帰って独立し、小澤屋和四郎と名のり建築請負業を始めた。
しかし、当時諏訪では大隅流が全盛を極めており、優れた彫刻を施した建物を作らなければならなかった。自分の彫刻技術の未熟さを知った和四郎は再び江戸へ向かった。
今度は宮彫師中沢五兵衛に師事し彫刻の技を磨くことになった。数年の修業の後、諏訪に戻り、新たに立川流を興し、棟梁立川和四郎富棟として再出発した。
これが諏訪での立川流の始まりで、一般的に「立川流」というと江戸の本来の立川流ではなく、諏訪の立川流のことを指す。それほど諏訪の立川流が後年隆盛となったからである。


諏訪立川流の発展
諏訪で再出発した立川和四郎富棟を待受けていたのは、大隅流との激しい競争であった。いさかいもしばしば発生した。
そんな中で諏訪藩主は大隅、立川の両者をよび、腕を競わせることになった。諏訪大社の下社を同じ規模、同じ期間で同時に二つの社を作るよう命じた。
どちらも全力を注ぎ見事に完成した。大隅流の作った社を「春宮」、立川流の作った社を「秋宮」といい、現在もその当時の姿で下諏訪町に存在している。
結果は立川流の評判が勝り、立川和四郎富棟の出世作となり、以後立川流は大隅流を圧倒し発展していった。

江戸時代の立川流作品
二代立川和四郎富昌の活躍で立川流は大いに発展し、本州中央部一円に数多くの名作をのこしていくことになった。
当初は建物だけであったが、次第に山車の装飾を手懸けるようになり、名品を残している。
建物では日光東照宮以来の幕府大造営となった静岡浅間神社は初代立川和四郎富棟、二代富昌、三代富重と親子孫立川家三代の期間にわたって造られた。
その他、長野善光寺、京都御所、静岡秋葉神社本宮、諏訪大社上社、豊川稲荷、山車では亀崎の山車、高山の山車などが代表的で、現在多くのものが国や県の文化財に指定されている。



恥ずかしながら、調べるといろんなことが判りました

・宮彫と流派
 宮彫とは前述のように神社仏閣などの楼閣建築を飾る装飾彫刻で、建造物の外回りだけではなく回廊、欄間などの室内にもおよぶ。そうした全ての空間部分をデザインし、下絵として絵画化し、それを立体的に木に彫刻して表現するものである。その内、欄間部分は簡略化され一般大衆化したものが民家の中で独自に発展し、現在も欄間屋さんとして親しまれている。
 宮彫は当初宮大工(堂宮師)の棟梁が簡単な模様や飾りを彫ることから始まり発展していった。江戸時代に入ると彫刻ができないと棟梁にはなれないと言われるほどでもあったようだ。その内、彫刻部分が発展し、堂宮大工と彫刻専門の宮彫師(宮師ともいう)が分化し、専門的になっていった。宮彫には流派が生まれ、その代表的なものが江戸前期では大隅流であり、後期では立川流である

・大隅流と江戸立川流

・「東の志村、西の宮馬(みやうま)、それらを凌ぐ立川」

この格言に登場する「西の宮馬」とは、江戸時代後期に播磨国(現在の兵庫県南西部)を中心に大活躍した、伝説的な天才彫刻家・宮大工の初代 翫志(がんし)播磨屋 格式(ひさのり)、通称「宮馬(みやうま)」のことです。


いやいや知らぬことばかり!
ますます興味がわいてきました

深堀してみようかなぁ?









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