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2025年7月12日

山崎合戦古戦場・・天王山夢ほたる公園です

「天下分け目の天王山」有名な言葉です
そうです、勝敗や運命を左右する重要な局面、または分岐点を意味する言葉です
この言葉は、1582年(天正十年)に羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いで、天王山が戦いの重要な場所であったことに由来します

いつかは、いつかはと、訪れたかったのですが、やっと来ることができました
この上の京都第二外環状道路は、走ったことはありません


天王山夢ほたる公園

高架の下を歩きます・・涼しいです

山崎合戦古戦場

天下分け目の天王山 山崎合戦 

織田信長の天下統一は目前に迫っていた。 天正10年(1582)6月2日、毛利攻めの総仕上げに向かうため京・本能寺にあった信長を丹波亀山城主で家臣の明智光秀が急襲したのである。手勢僅かの信長は紅蓮の炎の中で亡くなってしまう。世にいう「本能寺の変」の勃発である。この変によって光秀はポスト信長の最右翼に躍進した。
3日「信長死す」の知らせは備中高松城で毛利の先鋒清水宗治軍と対峙していた羽柴秀吉の 元にも届く。秀吉は黒田官兵衛の進言により戦を納めるため毛利との講和を急いだ。城主の切腹、開城を条件に講和を固めることがきた。毛利 の主力が引き上げるのを確認すると世に言う「中国大返し」の始まりである。1日に50キロ 以上を移動し京へ向けて突き進んだ。一方光秀 は、京周辺の武将に同心、合力を求め書状を送るも応じる武将は少なく、娘が嫁いだ丹後の細川藤孝、忠興父子にも見放されてしまった。 12日羽柴軍は摂津富田に進行。光秀は京から 桂川を渡り、長岡・勝龍寺城付近に主力を展開 した。13日午後4時頃、大山崎荘の町場外れを流れる円明寺川(現小泉川)を挟んで羽柴軍3万 6千光秀軍1万5千の軍勢が対峙した。そして午後4時30分頃合戦の火蓋が切って落とされ る。高山右近や中川清秀、池田恒興等摂津にいる主要な武将を味方につけた秀吉軍は一方的に攻め、僅か1時間余りて勝利を収めた。
大山崎の住人は合戦に巻き込まれることなく済んだ事に安堵したことであろう
勝利した秀吉は天王山頂から山麓に山崎城を築城し、大山崎から天下統一を目指すことになる


乙訓景観十景「天王山夢ほたる公園」
天王山を正面に臨むこの地はまさしく秀吉が光秀とが戦った山崎合戦の地です。前に流れる円明寺川を挟み両軍が激突しました

天王山と云えば、名神高速が拡張する前は、渋滞で有名な天王山トンネルが私の中では印象として残っていますね、毎日渋滞でしたから。
山腹中央付近がトンネル入り口かなぁ?


自動販売機とマンフォール

「ここが天王山 山崎の合戦の地」
キャラクターは知りませんが、なかなか面白い!

と、いうことで、長年温めてきたのです、この地を訪れることを!
京都へ行きますし、石清水八幡宮にも出かけますが、この大山崎は高速ICとして通過点ですね

ここへ来たということは、明智光秀にまつわる城など、この近辺の歴史散策をしてみよう

久しぶりの歴史の地、探訪でした














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