足跡― 日々の出来事、ちょっとした挑戦、そしてその記録を書き綴ります ― 神社仏閣の彫刻探訪撮影、PC、スマホ、写真撮影、カメラ、朝のウォーキング等々、いろんなことが 出てきます。その時折りに感じたことを綴ります。そんなこんなで、ようは、日記みたいな、なんでもアリということなんです!
2024年7月23日
2024年7月22日
地黄城址 (地黄御陣屋)・・・大阪府豊能郡能勢町地黄211
この地域を「地黄」と呼ぶのは、野間神社社記によれば、石上神宮より分霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものだといわれている
ここは、その地黄の地名がつく、地黄城址です
平安時代の承和年中(八三四~四八)より、当地は朝廷典薬寮領の地黄御薗として、薬草の貢献が行われたとある・・・野間神社由緒より
ここは、その地黄の地名がつく、地黄城址です
地黄城址 (地黄御陣屋・丸山新城)
旗本 能勢氏の居城
築城 慶長七年(一六〇二)元和元年(一六一五)
ここ東郷地域は縄文遺跡や古墳群がみられ、さらに律令下では朝廷の典寮園となり、古くから政治文化のさかえた土地柄である。
平安後期、多田満仲の一族が能勢に入部して土豪化し、のち国基になって能勢郡を領有、はじめて能勢氏を名乗り、西方の丸山城を本拠地とした。
戦国争乱は能勢氏にもおよび、天正十年(一五八二) 本能寺の変には明智方に加担、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝らの乱入をうけて、丸山城をはじめ城下は焼野原となった。
城主賴次は能勢を離散、以後領地は高山右近をはじめ、数代を経て天正十六年(一五八八) 島津氏の管掌する ところとなった。
能勢氏中興の祖といわれた能勢賴次は、関が原の合戦には東軍に組みし、軍功により旧領・預地をあわせ 一万石余が宛がわれた。
賴次は領内の野間社(布留の宮)の再建を手はじめ、ついで新しく「地黄城」と、城下町の構築に着手した [慶長七年(一六〇二)]。
普請奉行山田彦右衛門の縄張りにより、東西七五メートル・南北一一〇メートル・面積八二〇〇平方メートル、さらに大手・搦手・裏には堀をめぐらし、四方には石垣を高く築き高塀が設けられた。
城内には御殿・官宅をはじめ拾数屋舎が配され、北隅には三層の楼閣がきわ立った。普請完成は元和元年(一六一五)とされている。
近世初頭の陣屋城として偉容を輝かせたが、星はうつりて明治二年(一八六九)版籍奉還となるや、旗本能勢氏(四千八石) も累代祖霊の見守る中終焉をつげたのである。
○慶長七年(一六〇二)~元和元年(一六一五)、 丸山城から現在地に新城として築城。
○北側の石垣は「印内積み」といわれ、河原長右衛門宣勝の領民が宣勝助命の恩義のために築く。
平成六年三月 能勢町教育委員会
一体は草原で、草生い茂り、スニーカーでは、やばそう!
本来なら、長靴であるくのだが、持参していなし
東南隅に「能勢氏故城址」
「能勢氏故城址」
鳥居には「文化十四(1817)」と読める
稲荷社
降ります
・草むらで、帰路がはっきりしない
・何がでてきてもおかしくない、草むらは長靴が必須
東南隅に「能勢氏故城址」の石碑を稲荷神社側から
立派な石垣です
積み方は「印南積」と呼ばれている
「P」から見えた素敵な建物は・・・
「地黄公会堂」
地元自治会が「中之島にある大阪市中央公会堂のような建物を」と昭和11(1936)年に建設
黒塗りの檜に白い窓枠が映えます
数年前まで運転免許更新講習にも使われていたそうです
説明板に登場する、平安後期、多田満仲の一族・・・
平安時代中期の武将で清和源氏、六孫王経基の嫡男、多田源氏の祖で、多田満仲とも呼ばれる
清和源氏と云えば、多田神社、そして、多田銅山と、話は広がっていくのです
じつに面白いし、興味津々ですね
2024年7月21日
大阪府豊能郡能勢町地黄399、野間神社です
野間の大けやき、ケヤキの地内に「蟻無神社」があります
その「蟻無神社」は明治四十五年当社祭神は野間神社に合祀され、以後、神木の保全・境内の清浄化に蟻無会-(前身は蟻無講中)をはじめ、郷民こぞって奉仕してきたところである。
と、説明板に記されている
と、いうことで、野間神社を参拝いたします
野間の大ケヤキからわずかな距離
その「蟻無神社」は明治四十五年当社祭神は野間神社に合祀され、以後、神木の保全・境内の清浄化に蟻無会-(前身は蟻無講中)をはじめ、郷民こぞって奉仕してきたところである。
と、説明板に記されている
と、いうことで、野間神社を参拝いたします
野間の大ケヤキからわずかな距離
いまはバイパスとして国道477号が走るが、旧道に面して鳥居が建っています
郷社 野間神社の石標もあります
郷社 野間神社の石標もあります
柱に「萬治元(1658)」の文字が読める
社頭
柱には、元禄の年号が読める
野間社の社号表
元文元年(一七三六)「野間社」の社号標が建てられた
野間神社
当社は、地黄字森畑に鎮座する『延喜式』内の神社である。『延喜式』 神名帳 能勢郡の条に、「野間神社」とある。
当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の十三年(六〇五) 九月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭し たと記されている。 また、「能勢郡神社仏閣由来」には、天喜二甲午年(一〇五四)に同所より遷座がなされたと記されている。つまり今の奈良県天理市の石上神宮の分霊を布留道(布留大明神が当地へ遷座の時通った道) 「大原越え」を通り、「地黄長者七郎屋敷江移ス、地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」、「布留社」、「布留大明神」と呼んでいた。
祭神は、「饒速日命」、「宇賀御魂神」、「菅原道真」、「草野姫命」、「野見宿祢」となっている。 「饒速日命」は物部 氏の祖神で、前記の石上神宮は物部氏の氏神であること、今一つには、大化前代より当地域に蟠踞していた野間の 連は、「物部金連公、野間連等の祖」とあり、この地域一帯は、物部氏の勢力下にあって、しかもその一族の影響力の強い野間氏の氏神だった可能性がある。
野見宿祢は、土器をつくって朝廷に献上した氏族で、その宿弥を祭神としているのは、雄略天皇期、能勢より土 器を献上したという日本書紀の記述に結びつき、土師氏の祖として祭祀されたと考えられる。
社記によれば、当社の鎮座する地域を「地黄」と呼ぶのは、前記石上神宮より分霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものだといわれている。平安時代の承和年中(八三四~四八)より、当地は朝廷典薬寮領の地黄御薗として、薬草の貢献が行われた。
さらに平安時代の長暦元年(一〇三七)、能勢採銅所の設置により、布留社 (野間神社)は、同採銅所の鎮守社と なり、採銅所権預 (奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになった。
その後、能勢氏の居城とあいまって、天正年間(一五七三~九二) 織田信澄、また隣接の塩川氏との抗争の繰り返しで、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われ、天正十六年(一五八ハ)より能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となった。
天正十九年(一五九一) 九月領主島津義弘は、前領主能勢頼次等の願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。この時の棟札を『東郷村誌』にみると、各村々の人数は合て千四百七拾九人となり、当時の人口動静また氏子数など貴重な資料といえよう。
その後能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領が復帰し、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝えている。
以後、領主能勢氏の尊崇は厚く、万治年間(一六五八~六一)に拝殿・大鳥居を造立、
元文元年(一七三六)には社殿の改築がなされ、また同年に並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の右側に建立された。
明治四十年には、領内最寄りの神社九社が当社に合祀された。
祭事としては、古来より毎年十二月に行われる「御召し替え」(御霊代である玉の包み替え)をはじめ、特に十月秋の大祭には、近勢揃いの地車 、郷稀な「だんじり」「しし舞い」でにぎわう豪勢な祭りがとり行われている。
平成十五年三月 能勢町教育委員会
手書きの由緒
鳥居を入り、境内を眺める
前出の鳥居と同時の万治年間(一六五八~六一)に拝殿・大鳥居を造立された
布留大明神
本殿
拝殿前から鳥居を眺める
社務所
手水舎
常夜灯
お! トンボが!
改めて由緒を読めば・・・
当社は、地黄字森畑に鎮座する『延喜式』内の神社である。『延喜式』 神名帳 能勢郡の条に、「野間神社」とある。
当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の十三年(六〇五) 九月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭し たと記されている
歴史のある神社であることがわかる
そして、平安時代の長暦元年(一〇三七)、能勢採銅所の設置により、布留社 (野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅所権預 (奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになったともある
能勢氏の領地だったことから・・・
たしか、能勢妙見山日蓮宗を神社・寺院・領民を改宗させたとも読んだんことがある
歴史のある神社であることがわかる
そして、平安時代の長暦元年(一〇三七)、能勢採銅所の設置により、布留社 (野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅所権預 (奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになったともある
能勢氏の領地だったことから・・・
たしか、能勢妙見山日蓮宗を神社・寺院・領民を改宗させたとも読んだんことがある
現能勢町・・・今更ながら歴史的に興味のある地域ですね
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