これは絶対行きますが、なにせ暑い
期間は1ヶ月、9月30日まで
この期間中の終わりには、季節は秋?になるので、気温の低い日を選んでと考えました
なんのなんの、いっこうに気温は下がりません、真夏状態です
しかし、残す日は最終日、30日になりましたので、出発です
空は曇り、雲が広がっています
大手門横
世界遺産・国宝 姫路城 搦手周辺 特別公開
特別公開は、城の東側に位置する「搦手道」と道沿いにある建物などです。
「搦手道」は城の裏口にあたるもので、道のそばに土地の守り神の「長壁神社」があったことから、平常時は殿様などが参詣するために使われていました。
一方で、大天守への近道になることから、合戦になって敵が攻めて来た時の備えとして「との一門」から「との四門」までの4つの門が構えられたり、敵を迎え撃つ武士たちが待機した「トの櫓」なども設けられたりしていました。
「搦手道」は急な坂道にあることから見学者の安全に配慮してふだんは公開されておらず、今回、上から下まで通り抜けができるのは9年ぶりになります
この日は、なぜか順路が定められていて、菱の門から西の丸へ、それから天守へと
天守を見学して、いつもの出口、本丸(備前丸)から備前門へと向かうのです
天守から見た、今回の搦手周辺・右端「ちの門」その左が「トの櫓」「との門」
配置図
天守を降りてきて、本丸から備前門へ、そして特別公開の入り口の「ちの門」へ
井郭櫓
この多門櫓は、3つの部屋に分かれ、そのうち西室に釣瓶の滑車がついた大きな井戸があるので、「井戸櫓」とも呼ばれていました。
井戸は深さ約15m、直径2.9m、 水深は1.2mになります。
井郭櫓は、北室と東室には石落しや鉄砲狭間があり、手のとの一門・との二門の枡形を上から押さえる重要な位置にあります。
搦手口を防御すると同時に、 東帯曲輪(りの門から備前門への通路)の番所としての役割も担っています。
現在は埋められていますが、かつては櫓の南側壁面にも鉄砲狭間があり、東帯曲輪をも射程に入れていました。
搦手門
年代を感じる説明板、長いこと(9年間)、この場所は非公開でした
城の裏門を搦門といい、「との一門」から外へ向 って、「との二門」「との三門」「との四門」と急坂 に頑丈な門に揃えて、城の護りを固めていました。
現在「との三門」はありません。「との門」は城内 の他門とは異なり、門櫓は板張りで2階の窓は突き上 げ用です。城の西北方の山上に築かれていた中世の 置塩城の大手門を移諾したといわれています
トの櫓
トの櫓
トの櫓は、との一門の続櫓でとの一門の2階への入口になります。
建物の平面は菱形で、 室内は 1室で床は土間になっています。 床面は 水平でなく、東側に傾斜しています。
城内側(西側)に窓はありませんが、 東側と南側に格子窓が1カ所ずつ開いています。
この櫓の下に搦手道が通っていますが、下を 狙える石落しがないので、 その方向を攻撃する には、この2つの格子窓を使わなくてはなりません。
とくに窓の直下にはとの二門があるので、 格子窓からは真下に向けてとの二門を射撃する 必要があります。 そのため、 窓の下に床板を 張って高くして、 有効な射撃ができるようにしているとみられます。
錛で加工された、柱が美しい!
手前より、パチリです
・床が抜けそうらしいので、ここまでと
写真はないが、床面が傾いている
岩盤の上に石垣を積んで建ててるため
との一門(櫓門・重要文化財)
姫路城に残る櫓門で白漆喰の塗っていない唯一の門です。 「昭和の大修理工事」 までは 白漆喰が塗ってありましたが、 解体してみると当初は塗ってなかったことがわかったため、元のとおり素木造りに戻しました。
1階の門部では、門扉の上半分を格子、 下半分を板張りとした透かし門となっています。
透かし門は門扉を閉めても城の外と内が見えるもので、姫路城ではこれも唯一の事例です。 また、 饅頭金物には菊座や樽口がない古いタイプのものが 使われています。
2階の櫓部では、正面の武者窓が突上げ窓になっていて、 ほかの櫓門が引戸であるのに比べて古式な造りになっています。
そのため、 置塩城から移築された ものとの説があります。
との二門(高麗門・重要文化財)
石垣の間に寸分の隙間無く作られた、「との二門」
小さな屋根の高麗門は見晴らしが良く、トの櫓、との一門からの監視、攻撃が可能
との二門は虎口の前方を急な斜面にする坂虎口となっており、押し寄せる敵の勢い弱めるための工夫がされています
との二門は虎口の前方を急な斜面にする坂虎口となっており、押し寄せる敵の勢い弱めるための工夫がされています
長壁神社跡
振り返って、石垣をみる
中央から左下へと斜めの線が見える
右が、秀吉時代、左が池田氏の石垣です
「搦手道」は急な坂道で、写真を撮るのをすっかり忘れていました
ここは出口です
かつては、ここからも姫路城へ入れました
との四門(高麗門・重要文化財)
中央下部に今は使われていない、入場受付、その右は「との四門」
との四門(高麗門・重要文化財)
搦手の登閣口である「との四門」
長壁(刑部)神社は、姫路城の建つ姫山の地主神として古くから崇められてきました。 神社は城の鬼門に 建てられ、城を守護するものと信じられていました。
池田輝政が姫路城築城を行っていた頃、子の刻 (午前2時頃) 太鼓を打つと悪鬼が現れて人を殺すとか、 数々の怪異の話が広まり、姫山から城下に移されていた刑部社の祟りに違いないと噂されました。 同じころ、「城の良に八天塔を建てないと、 輝政夫妻が呪い殺される」という内容の書状が発見されました。
はたして輝政は原因不明の病に侵されたので、円満寺の明覚を招いて護摩の修法を行い、この場所に刑部社を 戻すとともに同じ境内に八天塔も建てました。やがて 怪異は鎮まり、輝政の病状も回復したといいます。
振り返って、石垣をみる
中央から左下へと斜めの線が見える
右が、秀吉時代、左が池田氏の石垣です
「搦手道」は急な坂道で、写真を撮るのをすっかり忘れていました
ここは出口です
かつては、ここからも姫路城へ入れました
との四門(高麗門・重要文化財)
中央下部に今は使われていない、入場受付、その右は「との四門」
との四門(高麗門・重要文化財)
2023年3月撮影より |
搦手の登閣口である「との四門」
昔、三の丸広場に陸軍が駐屯していた頃は、「菱の門」の南側でなく、との四門が入場口として使われた
現存しない門で、との三門があります
姫路城が廃城の危機にあった明治時代払い下げられたと言われています
特別公開・搦手周辺を見てきました
たくさんの方々が、来られていました
さすが、外国人の方々は来ませんね
聞くところ、近々、西の丸、化粧櫓の千姫に関する特別公開があるらしい
おそらく、秋の特別公開か?
とノ四門も、門内側の控え柱に屋根を架けて開門したときに扉が雨に濡れないように工夫した高麗門です
現存しない門で、との三門があります
姫路城が廃城の危機にあった明治時代払い下げられたと言われています
特別公開・搦手周辺を見てきました
たくさんの方々が、来られていました
さすが、外国人の方々は来ませんね
聞くところ、近々、西の丸、化粧櫓の千姫に関する特別公開があるらしい
おそらく、秋の特別公開か?
楽しみです
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