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2023年8月19日

住吉大社、第二回目です、重要文化財・パワースポットおよび摂社です

住吉大社、第二弾、重要文化財、パワースポットおよび、摂社です

反橋の上から・・・

第三本殿前に・・・

住吉大社の神使
 貴石 撫でうさぎ 五体を撫でて無病息災を祈る




若宮八幡宮
・・・角柱の鳥居です

五所御前の南側に西面して鎮座する若宮八幡宮は、第四本宮の祭神である神功皇后の御子にあたる応神天皇(八幡神)をお祀りする神社です。
住吉大神降臨の地である五所御前に隣接して鎮座していることや、若宮と称することは、神功皇后と応神天皇との関係をみたものであると思われます。
例祭は1月12日で、祭典時には特殊神事である湯立神楽が奉納されます。扉絵には、松と八幡神使である白鳩が描かれています。
祭神
・誉田別尊 (応神天皇)
・武内宿禰
・・・住吉神社より



神蹟 五所御前


五所御前は、別名を高天原ともいい、住吉大神降臨の伝承地である。
社伝によれば、神功皇后の摂政十一年辛卯年(西暦二二一年)、勅命を奉じた田裳見宿祢(住吉神主の始祖)が、大神の神殿を建立すべき処を求めた際、「真住吉 住吉国」(清らかな海に面した、安住の地の意)との神託を得て当地を選定し、その地の大樹に白鷺が飛来して、あたかも歓喜、賞賛するかの様子であったため、住吉大神の御心に叶った処として当社の鎮座地を定めたものと伝えられる。
後に四つの神殿を造営した後も、元の大樹に注連縄を張り、忌垣を設けて、祭祀を行ったものと伝えられる。この故実に倣い、当社の御鎮座を奉祝する
卯之葉神事(五月初卯日)では、当所に神鏡を懸け、卵の葉の玉串を捧げて拝礼する。
そのため、四神殿に准じた神蹟として五所御前と呼称される。
 

「五大力の神石」
御垣内の玉砂利の中には「五」「大」「力」の各文字が記された石があり、参詣者が自身の手によって探し出し、三つを揃えて願掛けの御守にする習俗が伝えられる。
五つの力とは、体力・智力・財力・福力・寿力であり、住吉大神の広大無辺 なるご守護を象徴する。
願いが成就した際、同様の小石を用意し、感謝の念を込めて文字をしたため御礼参りの時に倍に増やしてお返しする。 神石を増やして循環させることで 末広がりに幸福がもたらされる信仰である。
御守袋は本宮授与所又は楠社にて取り扱っております。 住吉大社



住吉の五大力

住吉大社の第一本宮の南に五所御前とよばれる場所があり、住吉大神を最初にお祀りした聖地と言い伝えられています。 社伝によれば、神功皇后が、住吉大神をお祀りすべき地を定めよと見廻りをなされた時、この地の大樹に白鷺が飛来して歓喜の様をあらわしたといい、この奇瑞によって、当地が大神の御心に叶う処であろうと思し召して、社地を定められたと伝えられ、その場所が五所御前にあたるといいます。
古くから聖地として信仰され、卯之葉神事では神饌や玉串がささげられてお祀りされています
いつしか垣内の玉砂利から、小石を探し出してお守りにする習俗が起りました。 やがて五所御前の信仰は、住吉神宮寺の五大力尊の信仰と習合して、今日にみる五大力となったようです。
五所御前の玉砂利のなかから「五」「大」「カ」の三種類の字 が記された石をさがし集め、参詣者自身がそれを御守にします。 五つの力については、体力・ 智力・財力・福力・寿力を授け るものと説明されますが、御守 にすれば心願成就の神徳がある とされます。




石舞台(国の重要文化財)
上:南中門に向いて・・・

下:南門に向いて・・・


石舞台は今から約400年前、豊臣秀頼公によって寄進されたものです。
四天王寺、厳島神社とともに日本三舞台と称され、国の重要文化財に指定されています



誕生石

丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したが、北条政子により捕えられ殺害されるところを家臣の本田次郎親経によって難を逃れ、摂津住吉に至った。
このあたりで日が暮れ、雷雨に遭い前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原に導いてゆき、 社頭に至った時には局が産気づいた。本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍の大石を抱いて男児を出産した。
これを知った住吉の神人田中光宗は産湯を出して湯薬をすすめて介抱し保護したという。
是を知った源頼朝は本田次郎を賞し、若君に成長した男児は後に薩摩・大隈ニヶ国をあてられた。 これが島津氏の初代・島津三郎忠久公である。 この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ、「誕生石」の聖地に垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が続いている。・・・案内板より

左橋の絵から・・・
住吉名勝図会によれば、丹後局は誕生石を抱いて男子を出産、本田次郎は住吉明神に安産を祈る


  島津家・仙厳閣の名入り、丸に十の字の島津家の紋ですね

丹後局って・・・
平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。後白河天皇の側室となり権勢を振るう
平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。源頼朝の乳母・比企尼の娘で、島津忠久を産んだという・・・Wikipediaより

諸説ありそうですね・・・



大歳神社
・鳥居には、文化七(1810)
・石灯籠は、文政五(1822)
と、年号がある


手水鉢

大歳社

おいとしぼし社

おもかる石の占い方

先ず 二拝ニ礼一拝でお参りする
次に  霊石を持ち上げ、重さを覚えておく
次に  霊石に手を添えて、願いごとをする
次に  もう一度、石を持ち上げる

軽い=かなう
重い=好転へ努力

先ず 二拝ニ礼一拝で退出

2回目に持ち上げた方が軽く感じればその願いは叶うということらしいですが・・・


当然、真ん中の霊石で占いましたが・・・残念ながら、私は重かった!!
邪心で、心の迷いを見透かされているようですなぁ!




官幣大社 住吉神社 境外末社 淺澤神社

浅沢の杜若

住吉の浅沢小野の杜若
衣に摺りつけ着む日知らずも  万葉集

その昔、ここから南にかけては清水の湧く大きな池沼があり浅沢と呼ばれ、奈良の猿沢・京都の大沢と並ぶ近畿の名勝であった。
とくに住吉の浅沢は杜若が美しく咲き乱れ、人たちに愛され、万葉集をはじめとする多くの歌集にその名をとどめている。
しかし、昭和に入って「忘水」と称された付近の清水も枯れ、一時は杜若に代わって明治神宮の花菖蒲が移植されていたが、地元の強い要請を受け、平成九年(一九九七)細江川改修の一貫として浅沢に新しい水脈を加え、各地の原種の杜若を集めて、「住吉区の花」の由来となる浅沢の杜若を復活させて保護、育成している。
いにしえを偲ぶ市民の憩いの場として、この名勝を永く守り伝えてゆきたい。
(公財)住吉名勝保存会



鳥居、右柱に「文政八年」1825年とある

        浅沢の池に立つ「常夜灯」



住吉大社 南門
住吉大社のパワースポットを知っている知人から教えてもらい、おもかる石の占いに挑戦してみましたが・・・

2回目に持ち上げた方が軽く感じればその願いは叶うということらしいですが・・・
残念ながら、私は重かった!!




住吉のいわれとまちなみ
奈良時代に編纂された「摂津国風土記」 には、「昔、 息長足比売 (おきなが たらしひめ : 神功皇后) の世に住吉の大神が出現して住むべき国を探し求めて 天下を巡りこの地 (住吉) に至った時、 これぞ、 まことに住むべき国なり、といい、「真住み吉し、 住吉の国」 といって神の地と定めた」 と、 住吉と呼ばれ た由縁が書かれています。
住吉は古代より海上交通 外交のための港と、海上守護をつかさどる住吉大 社を中心に栄えました。 上町台地の南寄りに位置し、 西側は北方にくらべ急な 崖が少なく、 住吉大社の南にあった細江川 (細井川)の河口の入江が "住吉の 津" であったと考えられています。
また、 自然美あふれる素晴らしいところで、 行楽をかねて参詣に訪れる公家 や文化人がこの地で和歌を詠み、 万葉集にも”あられ打つあられ松原住吉の弟 日姫と見とれど飽かぬかも”という歌が残されています。
中世には、「蟻の熊野詣」 といわれるほど賑わった熊野参詣の道筋である熊 野街道や紀州街道の交通の要衝として発展し、大勢の人達がこの地を訪れました。 また、遠里小野の荏胡麻 (エゴマ) 油や我孫子鋳物師(いもじ)など金属 加工産業で栄えました。
江戸時代には、紀州街道によって堺との流通もよく商業活動が活発になるとともに、商業的農業や商工業が発達しました。
近代になって、 日東蓄音機 (レコード)、摂津酒造、 だんつう業(もうせん・ じゅうたん等)などの先駆的な産業が生まれました。 さらに、交通面においても、明治18年に難波-大和川間に鉄道が開設されるなど、 近代化が進みました。 このように、住吉のまちなみから、 往時の産業・商業活動の活発さ、神社や お寺など、地域の人々とともに歩んできた住吉の歴史を伺うことができます。

住吉大社周辺地区HOPE (ホープ)ゾーン事業
住吉大社周辺は、数多くの有名な社寺が存在し、街道沿いを中心に伝統的な まちなみが残り、木々の緑にも恵まれた歴史と文化豊かな地域です。
そこで、地域のみなさんと大阪市が協働して、このすばらしい資源を活用し、 地域の特色を活かした居住地づくりを進めているのが 「住吉大社周辺地区 HOPE (ホープ) ゾーン事業」です。
本事業により、伝統的な町家の改修などでまちなみが整備され、地域コミュ ニティ活動の中心となる公園や広場、 集会施設も整備されました。・・・案内板より



追記:文中、文言は案内板より引用いたしました










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