中井権次一統の足跡を巡っています
丹波市立柏原歴史民俗資料館にて、企画展 中井権次と上田柏山「彫刻下絵の世界」が開催中
そのなかで、柏原藩陣屋の玄関を飾る彫刻の下絵を拝見しました
その彫刻が、中井権次正貞の作とありました
丹波市立柏原歴史民俗資料館の正面が、柏原藩陣屋跡ですので、早速拝見します
何度も訪れています、しかし、中井権次一統の足跡と知れば、違った眼でみてしまう私がいます
柏原藩主織田家旧邸長屋門から入ります
国指定史跡 柏原藩陣屋跡
正徳4年に造営された陣屋は、文政
元年(1818)火災にあいました。
その後再建されたものが現存する陣屋で、桧皮葺の玄関と桟瓦葺寄棟造の表御殿の一部が残っています
桧皮葺の玄関の彫刻が、中井権次正貞の手によるものです
入母屋蟇股(渦)
桁虹梁に彫られている渦、岩亀彫、虹梁(渦、若葉)
上から懸魚(雲)、大瓶束(棟束に富士雲)、蟇股(柏原織田家の家紋と波)
桁隠し(揚羽蝶紋)
木鼻(渦)
玄関・・・入って観ましょう
内部は撮影禁止なので、玄関先からパチリです!
蟇股(柏原織田家の家紋と波)裏側
右手から・・・
県指定文化財 柏原藩主織田家旧邸長屋門
陣屋の表御門。火災を免れたため、正徳四年(1714)陣屋造営当時のものが現存しています。
間口13間1尺2寸、奥行2間の単層長屋門形式で、屋根は入母屋造桟瓦葺平入。
門の両側が長屋のように仕切られているためこのように呼ばれています。
門戸を挟んで、正面左手(北側)に番所・土間、右手(南側)に馬見所・砲庫があり、門扉部と馬見所・砲庫などはほぼ原形を保っていますが、北側の番所部分は北端の柱筋や壁は改変を受けています。
また、馬見所は現在、板敷ですが当初は、番所と同様に畳敷であったと考えられます。
陣屋玄関からの長屋門
陣屋は、織田信休が移封後約20年を経た正徳4年(1714)に造営したものです。
当時の陣屋は、約20000㎡の敷地に表御殿、中御殿、奥御殿のある主屋や台所、幕末には藩校の崇広館などが存在しました
柏原藩について・・・
柏原藩主の系統には、前期・後期に分ける織田家の二時期があります。
この陣屋を藩邸としたのは、後期柏原藩です。
後期の柏原藩は、織田信長の次男信雄の子孫である織田信休が元禄八年(1695)大和国松山藩(現奈良県宇陀市)から移封して始まりました。
領地は丹波国氷上郡の内44ケ村、何鹿郡(現京都府綾部市)の内8ケ村、天田郡(現京都府福知山市)の内5ケ村でした。信休以降十代続き、幕末・廃藩置県を迎えました。
陣屋は、背後を大内山に抱かれた緩やかな傾斜地上に立地しており、当時の城下町では最高所に位置します。陣屋自体は高低差のほとんどない平地に立地します。
陣屋の規模は東西130m、南北160mで、大内山に接する南東部の一角が突出しており、自然地形を巧みに取り込んだ池泉を伴う回遊式の庭園が築かれていました。
防御施設としては、石塁の上に高塀を巡らすだけで、堀や土塁は築かれていませんでしたが、陣屋の正面付近には桝形等が備えられ、周囲は表御門にあたる長屋門をはじめ七ケ所の門が設けられていました。
陣屋内には表御殿、中御殿、奥御殿からなる主屋、藩政を執行する御用所、北西隅には藩校の崇廣館(安政五年造営)が設けられ、この他に下台所、厩、土蔵、作事所等の建物や、北東隅には稲荷神社もありました。
また馬場や訓練所などもあり、領内に築かれた政庁としての機能を備えていました。・・・配布パンフより引用
柏原歴史民俗資料館横にある、初代藩主、織田信包公
柏原藩初代藩主、織田信包(1543~1614)は、織田信長の実弟。
兄から信頼が厚く、織田軍団の重鎮として各地で戦功があった。
近江・小谷城の浅井攻めの後、長政の正室だった妹、市と三人の娘、茶々、初、江を引き取る。
「本能寺の変」後は秀吉に従い、北条氏の助命を嘆願し、秀吉の不興を買って改易されたといわれる。
その後、慶長三年(1598)に丹波氷上郡で三万六千石を与えられた。
大阪城で豊臣秀頼の後見役を務める一方、藩では佐治一成(江の最初の夫)に命じて治水や殖産興業に努めた事績が伝えられている
案内されている観光スポット・・・全部、拝見しましたよ~