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2025年11月28日

秋の旅行 山口県、岩国城です

いよいよ岩国城に入場します

それなりに観光客は多いですが、以前のようなことはありませんので、ゆっくり拝見できますね

天守閣は桃山風の南蛮造りと云われ、三層四階で本丸の北隅にそびえていました
この外に矢倉五棟、折り回し大門二門、埋門一門、井戸二堀がありました

三層四階の桃山風南蛮造り


入口です

受付に聞きました
・撮影、カメラはどうですか?
・・バンバン撮ってください!

いいすね!
撮影はご自由に

城内に入ったら、ど~んと、展示されていた太刀
御太刀
銘:陸奥守藤原包保作
時代:江戸中期

奉納用 

長さ-196cm 重さ-本身 5kg:さや  3kg


刀身の名称・拵造りの名称


中世吉川氏とお城
岩国城-歴史と周辺遺構 -
中世吉川氏とお城
吉川広家は岩国城の築城以前、 安芸国 (広島県西部) や出雲国 (島根県東部) の城に居城しており、その遺構を現在もみることができる。
その一つに広島県北広島町にある吉川元春館跡が挙げられる。 これは天正11年(1583) 頃に吉川元春が隠居所として建てた館跡で、 吉川広家が出雲国へ移転する天正19年まで使用された。
ほかには島根県安来市の月山富田城跡がある。 吉川広家は天正19年に羽柴秀吉の命により、 出雲国富田城に移る。 富田城は急峻な月山を中心に、 その周囲の丘陵上にも郭や石垣、 堀切、土塁な どの防御施設を配した大規模な城郭で、敵の侵攻を妨げる工夫が随所に見られる。 富田城は防御 に優れていたものの、山間部に位置していることから交通には不便であった。 そこで海陸ともに 交通に便利な土地で、かつ城下町としての立地条件が良い米子に着目し、湊山 (鳥取県米子市) を中心に築城を始める。 ところが慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗北し、 築城途中で岩国へ移封したため完成をみることはなかった。


御城山平図
築城当時の岩国城の規模

城山の尾根沿いに長さ180メートル、横に54〜108メートル、石垣の高さ5.4メートル、天守閣は桃山風の南蛮造りと云われ、三層四階で本丸の北隅にそびえていました。この外に矢倉五棟、折り回し大門二門、埋門一門、井戸二堀がありました。

横山側の前方を大手とし、御庄後方を摘手として錦川を隔てて北方に安芸境をにらんでいました。





   火縄銃

備州長舩則光



守最上階にやってきました
その展望です
いやいや、お見事です
天守閣からは吉香公園、城下町、錦帯橋から岩国市内一面、岩国航空基地、岩国錦帯橋空港、瀬戸内海の島々や四国、宮島までが一望できます。


天守最上階の床に貼られている古地図



これは寛文八年(1668)に描かれてた「岩国領全図」という岩国の古い地図です
錦帯橋は延宝元年(1673)に創建された橋であるため、この中には描かれていません
海岸部は埋め立てれて少し変化していますが、現在錦帯橋のある城下町周辺の町割りは当時からあまり変わっていないことがわかります






ぐるっと、御城を周ってみます

お城の姿・・北側

お城の姿・・南側

お城の姿・・東側(二の丸広場から眺める)

大手門跡?

さぁ、下城します


大釣井
大釣井
岩国城本丸の西側にあたるこの周辺は水の手と呼ばれる。
水の手は城の水を確保する重要な場所であり、この大井戸も 慶長十三年(一六〇八年)の築城の際につくられた。
また、 非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、敵に包 囲された際や落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられている。


下りロープウェイです

下りも一杯ですが、登ってくる車内も一杯のようです

天気に恵まれ、天守最上階からの眺めは最高でした

岩国城は、初代岩国藩主吉川広家によって慶長13(1608)年に作られた山城ですが、築城後7年で一国一城令により取り壊されました。
昭和36(1961)年3月、天守閣跡より市内を眺望できる東側へ約50メートル位置を変えて、復元工事に着手、翌昭和37(1962)年に再建されたものです。

しかし、約50m位置を変えて再建の考え方はお見事です
城山にそびえる御城の姿を錦帯橋から眺める絵は素晴らしいことでしょうね

さぁ、その絵、構図をパチリしにいきましょう



追記:記事中文言は、岩国観光協会から一部引用しています







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