鳥羽伏見の戦いでは淀も主戦場となり十六代正邦は老中として江戸で難局に対処する一方、家臣達は藩主不在のなか難しい選択を迫られ結果、旧幕府軍、新政府軍のいずれにも与しない中立の立場を貫いたと記述されています
その稲葉家、初代正成公が祀られている神社、稲葉神社です
社頭です
本殿
稲葉神社
御祭神は淀稲葉家の初代正成公をお祀りし 歴代藩主の遺徳を偲ぶため所縁の人達によって明治十七年(1884)に創建された。 正成公は元亀二年(1571)美濃国本巣郡 十七条の城主林家に生まれ、長して稲葉重通の女婿となる。その後、明智光秀の重臣斎藤利三の娘、福(のちの春日局)と再婚し、ともに淀稲葉家の礎を築いた。
五代正知が享保八年(1733)下総佐倉より淀へ転封となり、以後、十二代にわたり淀の地を治めた。慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは淀も主戦場となり十六代正邦は老中として江戸で難局に対処する一方、家臣達は 藩主不在のなか難しい選択を迫られ結果 旧幕府軍、新政府軍のいずれにも与しない中立の立場を貫いた。ここに先人たちへの思いを込めてこの年を刻む
令和三年六月六日 稲葉家十九代 稲葉正輝
手前:稲葉神社 奥:與杼神社本殿
稲葉神社の祭神と淀藩について
祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。
元亀二年(1571)に美濃国 (岐阜県) 本巣郡十七条の城主、林家に生まれ、長じて稲葉重通の女婿となり、 以後稲葉を称した。ところが、妻の死去により明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え再婚 したのが、有名な「春日局」である。
正成は豊臣秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり五万石を領した。
秀吉の没後、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦の功により徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌に仕えた。 その後、下野国 (栃木県) 真岡の城主となり、二万石を領したが寛永五年(1628) 江戸において没し、現龍院に葬られた。
稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて、五代目の正知の時で享保八年(一七二三) 下総国(千葉県) 佐倉より十万二千石で入封した。
その後明治四年(1871) 十六代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が十二代百四十八年間にわたり淀藩主であった。
0 件のコメント:
コメントを投稿