地図上でしか知らなかった淀城址
淀城は、山城国久世郡淀、現在の京都府京都市伏見区淀本町にあった日本の城
じつは、こんなに素晴らしい石垣の城址とは知りませんでした
改めて天守台の石垣と堀の投稿写真を眺めまして、これは行かないと・・
淀城は徳川二代将軍秀忠がこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工したものです
淀城は徳川二代将軍秀忠がこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工したものです
そして、今回、訪れる機会ができました
さぁ、拝見しましょう
さぁ、拝見しましょう
淀城址を見学するには、まず「P」を探さななければなりません
周辺に「P」は2ヶ所(下赤丸)
上の赤丸は與杼(よど)神社の有料「P」・下赤丸は、普通の有料「P」
これみれば、下赤丸の「P」の奥から、天守台の石垣がパチリできそうです
おそらくこの位置から撮影が最適でしょう
ここに「P」しましょう
ピンポンでした、ここ「P」の一番奥が撮影ポイントです
この右側には京阪本線の高架橋がありますので、右は除いてパチリです
見事な石垣です
この一枚は、motorola edge 50S Pro 広角でパチリです
motorola edge 50S Proによる広角撮影は活躍しそうですね
これみれば、下赤丸の「P」の奥から、天守台の石垣がパチリできそうです
おそらくこの位置から撮影が最適でしょう
ここに「P」しましょう
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Googlemapより |
ピンポンでした、ここ「P」の一番奥が撮影ポイントです
この右側には京阪本線の高架橋がありますので、右は除いてパチリです
見事な石垣です
この一枚は、motorola edge 50S Pro 広角でパチリです
motorola edge 50S Proによる広角撮影は活躍しそうですね
高架下を歩いていくと「渡し場跡の碑」がありました
その向かいが城跡への入り口のようです
ここが、與杼神社の「P」、そして淀城跡公園への入り口となります
目指す、天守台へ
淀城の由来
徳川二代将軍秀忠は、元和五年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。
寛永十年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(1723)五月、春日局かすがのつぼねの子孫である稲葉丹後守正知が下総しもふさ佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。
江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径8メートルもあり城の西南と北の二カ所に取り付けられていた。
淀城とその城下町の盛親は延享五年(1748)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。
昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。
なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。 京都市 案内板より引用
鍵の掛かっていない鉄柵を開けて、天守台へと
鍵の掛かっていない鉄柵を開けて、天守台へと
残念ながら、天守台には柵に施錠されていました
穴蔵式の天守台跡
ここに五重五階の天守と四隅に二重袖櫓が建っていたようです
天守台から石垣の上の道を東へ
蓮の葉の緑が鮮やかです
振り返って・・
これぐらい離れるとで天守台の姿がわかりますね
淀城址公園にある、「淀城址」の碑
よ~く、見ると、「子爵 稲葉正凱」とある
北端の石垣(丹波櫓台跡)
明治天皇御駐蹕の碑がありました
明治天皇(1852~1912)は、慶応四年(1868)3月21日親征・海軍検閲のため大坂行幸。同日この地淀城で休憩しました。
同月23日大坂行在所となった本願寺別院に到着し、1カ月余り大坂に滞在。4月7日大坂を出発。水路八軒屋より守口に上陸し、同日淀城で宿泊。翌日鳥羽で休憩後、京都へ還御。この石標は明治天皇行幸の地を示すものです。・・説明より引用
その位置から多門櫓があったであろう東側を臨む
一端公園を出てみました
淀城の蓮「淀姫」
淀城の堀で確認された新たな品種の蓮であることから、京都花蓮研究会により「淀姫」と命名された。廃城後の1885(明治一八) 年に植えられたものが「淀姫」の起源とされているが、諸説存在するようである。
「淀姫」は、一度はこの地から消失したが、 2017七年に、淀観光協会によって、復活の試 みがスタートした。同協会は、蓮の新芽を食べる外来種・アカミミガメの駆除を続けながら、 2019年には堀の一部を整備し、「淀姫」を 植え付けた。
「淀姫」は、花の大きさが30cm近くにもなる大型の蓮で、全体が桃色で弁の内底にも紅が入り、条線がはっきりしている。また栽培条件によっては長期にわたって開花するのも特徴である。ここでは、六月下旬につぼみを付け 始め、七月下旬には最盛期を迎え、九月初旬頃まで、長期にわたって花を楽しむことができる 京都市 案内板より
「淀の水車」跡らしい
その水車のレプリカが淀駅前にあるらしい?
本丸址・淀城址公園に戻りました
古地図
淀城は三川合流地(木津川・宇治川・桂川)の中州を干拓し、淀三町と呼ばれる城下町を形成していました。縄張りは本丸と二の丸を中心とした「回」字形に、三の丸、西の丸、東外には東曲輪が巨大な馬出曲輪が配されていた近世城郭である。築城にあたっては大坂城の縄張りが参考にされ、堀や門の取り付け方などは、当時の貿易国であったオランダ人からヨーロッパの築城技術が採り入れられたと考えられています。
北の納所地区と南西の美豆地区とは、淀小橋・淀大橋でつながれ、城下町の周囲は三川の水に囲まれ、河中の城で三面を川に囲まれた天然の要害で、中州自体が大きな水堀であり、古代中国の都城のような構造を持っていました。
「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二カ所に取り付けられていたのが確認できますね
帰途、内堀を埋め立てた駐輪場から望む、天守台石垣
これほどの規模の石垣をもつ淀城址
なぜ、もっと早くにこなかったのかと、反省?しかり
そして、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城
末裔の方がおられるのでしょうか?
この伏見の淀、大山崎、長岡京市といい、もう少し歩いて歴史を感じてみたいですね
良き城址めぐりでした
しかし、暑い!!
しかし、暑い!!
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