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2024年6月18日

特別史跡 旧閑谷学校 続編です

前回は、国宝講堂を中心に記事にしました
今回は、それ以外の重要文化財などです


校門
屋根は備前焼の本瓦葺き、棟に鯱を載せた正門
家紋は「六葉文軒丸瓦」
「鶴鳴門」と云われ、字の如く、門を開く時の音が、鶴の鳴き声に似ているからと云われている

校内から

側面

聖廟


楷の木・・・学問の木


聖廟大成殿
(聖廟は江戸時代に 「聖堂」 「西御堂」 と呼ばれています)

1684年(貞享元年)の建築と伝えられる、 儒教の祖・ 孔子を祭った建物です。
奥にある八角形の容器の中には、高さ136cmの孔子像 (1701年鋳造) が納められています。 秋には 「釈菜」 と呼ばれる孔 子をお祭りする儀式が行われています。
また、建物の内部は、 備前焼の塼 (タイル)を敷いた床、 木部の拭き漆、 天井に春慶塗 (朱
の色を付けたあと透明な漆を塗る) といった上質な仕上げが施されています。




左が聖廟、右が閑谷神社


重要文化財 閑谷神社




閑谷神社
(江戸時代には 「芳烈祠」 「東御堂」 と呼ばれていました)

1686年 (貞享3年)の建築と伝えられ、 閑谷学校 の創始者である岡山藩主池田光政を祭った建物で す。 1875年 (明治8年) に宗教法人となり、 閑谷神 社と称しました。 建物は手前から順に、拝殿・幣殿・本殿と並んでいますが、 江戸時代にはそれぞれ中庭廊芳烈祠と呼ばれています。 本殿の内陣 には、池田光政の像が安置されています。 江戸時代ここでは、 「釈菜」の後、池田光政を祭る儀式である「芳烈祠之儀」 が行われていました。
拝殿の左にある倉 「神庫」 (「庫」)は、池田光政 の遺品 (現在は岡山市 林原美術館に収蔵) が収め られていたため、 扉は厚く厳重な造りとなっていま す。 また本殿の左には、 聖廟と同じく、一つの花崗岩から削り出した繋牲石があります。 本来は祭事の際に供える生け贄の動物を繋ぐための施設ですが、 使用されなかったようです。



一つの花崗岩から削り出した繋牲石


重要文化財 文庫



登録有形文化財 第33-0054号
この資料館の建物は、 明治38年(1905) 私立中学閑谷黌」 (のち旧制岡山県閑谷中学校) 本館として建てられました。 昭和39年(1964) に岡山県立 和気高等学校閑谷校舎が閉鎖 になるまで、 学校として使用さ れました。
その後は岡山県青少年教育 センター閑谷学校となり、 平成 7年(1995) から資料館として 公開されています。

この建造物は貴重な国民的財産です 
建物の各所に、 明治時代の雰囲気を残しています。


火除山



石塀
300年を経て今も整然たる姿をたたえる。学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀は、備前焼瓦と並んで、旧関谷学校に独特の景観を生み出しています



河内屋治兵衛の石工の造り

南側、東西の石組は「切り込みはぎ式」・河内屋治兵衛を頭領とする石工集団によって築かれたもの
内部に洗浄した割栗石を詰めて、排水を助けており、300年を経ても今も、端然たる姿です



300年を経て今も整然たる姿をたたえる。学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀は、備前焼瓦と並んで、旧関谷学校に独特の景観を生み出しています



旧閑谷学校 石門
石門は18世紀初めの建築で、講堂など旧閑谷学校の主要施設から南約1km離れたところに位置していますが、広義にはここから北が校地になります
現在は1m余りしか見えていませんが、江戸時代には地上から約3.3mの高さであったことが確認されています
2本の石柱の間には幅約2.2mの道路があり、この道を通って学校に向かいました


大のお気に入りの閑谷学校です
次回はいつ来ることができるでしょうか?
楷の木が色づくころが、いいかも!
まわりの紅葉もまたきれいですからね











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