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2024年6月17日

特別史跡 旧閑谷学校・・・岡山県備前市閑谷784

四度目の特別史跡 旧閑谷学校です
前回は、2017年6月
7年も経過しましたが、緑の空間にある姿は変わっていません

今日は快晴・・・それも開門前に到着、いわゆる一番乗りです
だから、だれもいないのです!

「P」付近からやや左側をパチリです

案内説明板の長文を文字起こししてみました
おそらく、読んではいただけないでしょうが、これを読めば歴史がわかります

特別史跡 旧閑谷学校
旧閑谷学校は、岡山藩主池田光政が、庶民の教育を目的として寛文 十年(1670)に設立した郷学である。 徳川光圀・保科正之とならんで天下の三名君と称された池田光政は、藩政の目標を儒学の教える仁政におき、正保二年(1645)には、中江藤樹の高弟熊沢蕃山に命じ、岡山城下花畠で藩士に陽明学と武芸を修業させた。その後、本格的な家臣教育の機関として、寛文六年(1666)に城内の石山に「仮学館」を建設し、同九年には西中山下に 岡山藩学校を開設した。また、庶民の子弟に対しては、寛文八年(1668)に領内一二三カ所に手習所を設置したが、財政難により延宝三年(1675)にはその全てを廃止して、この閑谷の地に統合した。 寛文六年(1666)、光政は領内を巡視してこの地に至り山水閑静にして読書講学にふさわしい場所であるとし、寛文十年仮学校を開 し、この地の旧名木谷村「延原」を「閑谷」と改め、家臣津田永忠に後世にまで残る学校の建築を命じた。 現在目にすることのできる閑谷学校の姿が完成したのは、光政没後 元禄十四年(1701)、二代目藩主綱政の治政のもとで、創建時の姿をほぼ完全に残しているものとして特別史跡に指定されている。 さらに、建造物等二五件が重要文化財に指定されており、中でも、講堂は学校建築として国宝に指定されている。 閑谷学校の名声は、古くから天下に聞こえていたようで、高山彦九郎・菅茶山・頼山陽・大塩平八郎・横井小楠などの学者文人なども来遊しており、大鳥圭介などの藩外からの来学も多かった。 学校は周囲を765メートルに及ぶ石塀で囲み、南側に校門(鶴鳴 門)・公門(御成門)・飲室門・校厨門の四門を備え、中に聖廟・閑谷神社(芳烈祠) 講堂・小斎・習芸斎・飲室・文庫などが配置されている。備前焼きの赤瓦がまわりの緑にはえて美しく、石塀とともに 閑谷学校特有の景観を醸し出している。かつては火除山をへだてて西側に学房(寄宿舎)がおかれていたが、現在は明治三八年(1905) に建築された旧制の私立(後に県立) 中学校の校舎であった資料館があり、館内には創学以来三百年以上にわたって継続している閑谷学校の歴史を振り返ることのできる数々の資料を展示している。石塀の南には東西にのびる池があり、重要文化財に指定されている石橋( 藩橋)がかかっている。さらに、一・ニキロメール南方には当時の学校の一の門であった石門が四分の三ほど土に埋もれて現存している。 ところで、綱政は延宝八年(1680)、木谷村二七九石を永代学田とし、万一国替えなどの際にも学校経営にいささかも影響をうけないようにとの保証を与え、幕末まで閑谷の地に論語朗誦の声は絶えなかった。明治の廃藩置県・学制の改革等の大変革によって、全国の全ての藩校は廃校となったが、閑谷学校の歴史を閉じてはならないとする旧藩士や民間有志によって、明治六年、山田方谷を迎えて閑谷精舎として再興された。同一0年方谷の死去により閉鎖され、明治一七年 (1884)、西微山らによって閑谷黌として復活を見てからは、明治三七年私立閑谷中学閑谷黌と改称、大正10年には県営に移管され 岡山県閑谷中学校となり、多くの俊秀を世に送りだしてきた。 戦後、県立閑谷高等学校を経て県立和気高等学校閑谷校舎となり、昭和三九年まで中等教育の場として学校の歴継承して来た。翌40年、和気町尺所の地にある県立和気高等学本 荘校舎と合併し県立和気閑谷高等学校となった。同校は閑谷学校の歴史と伝統を今に伝えており、孔子をまつる釈菜の儀式など伝統行事の継承に和気閑谷高等学校の教職員や生徒が現在でも深く関わっている・・・案内板より引用


校門
・屋根は備前焼の本瓦葺き、棟に鯱を載せた正門・・家紋は「六葉文軒丸瓦」「鶴鳴門」と云われ、字の如く、門を開く時の音が、鶴の鳴き声に似ているからと云われている
校門から垣間見える聖廟も、また素敵な構図です


校内入り口付近からの風景

国宝・講堂と、左、小齋(重要文化財)
元禄14年(1701)の完成で入母屋造り、錣葺きの大屋根を乗せています
いったん、こけら葺きの屋根を造った上に垂木ごとに漆をかけた一枚板を張りその上に備前焼瓦を乗せるといった手の込んだ造り、雨水に帯する万全の対策が施されています
錣葺きとは大棟から軒まで一枚の面ではなく、一段の区切りをつけてすぐその下から軒までを葺く形式、その葺き方のことを錣葺き(しころぶき)といいます
内部は10本の欅の丸柱、丸柱に囲まれた内室とその外廻りを広縁でとりまいています
材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一分の狂いもないとのこと



さぁ、講堂内へ入りましょう

習芸齋
農民たちも学んだ、教室としで使われた施設
毎月三と八の付く日は「五経」と「小学」、朔日には農民も聴講することができる「朱文公学規」の講釈が行われました


習芸齋の左隣の入り口、飲室から入ります

飲室門

飲室
東隣の習芸斎とともに1672年(寛文12年)の建築と伝えられ、 生徒の休憩に使用された部屋
です。 中央に炉が設けられ、 炉には炭火以外の使用を禁じた「爐中炭火之外不許薪火」 の文字が刻まれ、防火に気を配っていたことが分かります。 また飲室は、習芸斎や講堂に行き来する生徒の出入する場所でもありました


右縁に「斯墟中炭火之外不許薪火」と刻まれています

習芸齋の内部
閑谷学校の講義室の一つで、毎月3日、8日、13日、18日、23日、28日に五経 (『易経』 『書経』『詩経』 『礼記』 『春秋』) という儒教の最 も基本的な教えを記した書物の講義が行われまし た。 また、毎月1日には 「白鹿洞書院掲示」(朱子学 の創始者である中国の朱子の教えが分かりやすく記されたもの。 講堂に掲げられています。) の講義も行われ、生徒のほか近くに住む農民なども出席しました。


天井は張られていない・・・太い自然木が見える野天井

講堂への渡り廊下

渡り廊下に懸魚が・・・閑谷学校の七不思議の一つらしい


講堂
1701年 (元禄 14年)の建築と伝えられ、 学校内では最大の建物です。 モザイク模様に見える備前焼の屋根瓦、内部のケヤキの丸い柱、内部の見える部材に施された拭き漆など、洗練された意匠と入念な技術によって建築されています。
毎月1日、6日、11日、16日、21日、26日に、四書(『大学』 『中庸』 『論語』 『孟子』)という儒教の最も基本的な教えを記した書物の講義が行われました。 また、 閑谷学校の創始者・池田光政を祭る儀式 (「芳烈祠之儀」) の後でも講義が行われています。


講堂は、すべて障子戸です
開けると、ツバメが入りますので、開放禁止とあります

その戸を開けると・・・みごとな空間、黒光りの床

広縁を左へ歩き、正面のから、拝見


広縁の角、ここは辰巳の方位、パワースポットと以前お聞きしました 

写真下の板の隙間付近に板に触れないよう手のひらをかざすと・・・
あら、不思議! ほんわり、暖かくなってきました
所謂、「気」です・・・信じる者しか、分かりませんけど!

ここに座り、素敵な校庭を眺めます
寝転んで、空を、緑をしばらく眺めていたいぐらいです
そして、飲食禁止なので、お茶も飲めません


景色は景色はこんな素敵なのです

中央の角付近が辰巳の方位

       さらに左周りで・・・

反対側からの堂内


小斎・・・重要文化財






延宝5年(1677)に建造されたもの
藩主臨学の際の御成の間である
この建物だけが、こけら葺きで現存する建造物の中では最も古い姿を残している


この構図がデフォルトですね

今回はここまで・・・

次回は、校門・石塀・など、周辺を記事にいたします

ほんと、何度来ても、ますます気に入り度は増します
よきところです











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