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2023年12月31日

今朝の出来事・・・「鳩の休憩所?」

いつものように、農道を歩いていたら、電柱、電線に鳩の集団が休憩中?

写真で、数を数えてみたら、64羽

飛び立ちましたので、  ちょっと、追っかけてみました

周りの畑に一斉に下りていきます


餌を探して食べているようです

飛び立ちました
気配を感じ取られたか?

右回りに旋回して・・・

次なる畑に・・・

稲作の終わった畑に米でも落ちているのか、それとも地中の虫など探しているのか?

まぁ、時折見かける光景ですが、今朝は、うまく撮影できました

こんな風に立ち止まって、パチリするから、ウォーキングの時間が長くなるのです
そして、ウォーキングで体力増進の意味も薄れていくのです

でもね、ただただ歩くのは飽きてきますので、必ず、デジカメをお伴させます

また、来年も続くことでしょう・・・




・・・御礼・・・

2023年も今日で終わります
今年、一日一枚の記事をと、投稿してきました
なんとか、365記事、アップできました

そして、全期間を通じて、「747,494」カウント、11月は「9,834」12月は「6,538」と、お立ち寄りいただき感謝いたしております
いつもながらの我が日記みたいなものです

新しいことにもチャレンジしてみました
それは、インスタグラムに日々の写真をアップし始めました
慣れてきたこともあり、新年度には、リンクを記しますので、またお立ち寄りください

と、いうことで、2023年、本当にありがとうございました

                            平凡なおっちゃん、拝



2023年12月30日

亀老山展望台で絶景を眺めます・・・ 愛媛県今治市吉海町南浦487番地4

四国、お城巡り、今治城が最後となりました(下赤枠)
帰路は、しまなみ海道を走ります
しまなみ海道、初めて走ります
わくわくしますね
そして、調べていると、大島に亀老山展望台という観光スポットを発見
これは、立ち寄ってみようと、走ります (中央、赤丸)

Google Mapより

大島に到着
ちょっと、遅めの昼食を「道の駅 よしうみいきいき館」とういうことにしました

その食堂から見えた光景
SONY RX-100を使い逆光もなんのその、漁船をシルエットにして、パチリです
知らなかったのですが、ここは、サイクリングのベース?のようです

ちょっと、調べてみました
瀬戸内しまなみ海道にある「サイクリングロード」は、日本で初めて海峡を横断できる自転車道です。歴史と文化にあふれる島々を結ぶ全長約70kmの海の道をサイクリングで満喫していただくために、尾道市から今治市の間にある「しまなみ海道」沿線ではレンタサイクルを運営しています。各地区にあるレンタサイクルターミナルであれば乗捨ても自由です。また、今治市内の一部のホテル・旅館等にも乗り捨てが可能です
と、ありました

それで、自転車で走る人が多いのですね
いやいや、私には到底できませんが・・・

亀老山展望台に到着

めちゃくちゃ多いす! 「P」満車
標高301.1mの亀老山展望公園は、大島の南端に位置し、瀬戸内海国立公園に指定されています。隈研吾氏による設計として知られるパノラマ展望台ブリッジからは、世界初三連吊橋「来島海峡大橋」と日本三大急潮のひとつ「来島海峡」の潮流、晴れた日には西日本最高峰「石鎚山」を眺める事ができます。
2017年、「亀老山山頂から望む来島海峡」が四国八十八景に選定されました。
と、あります


今日は、天気はよかったのですが、残念ながら、霞?が、かかっているようです
時間帯にも関係するかも・・・
でも、絶景です
こんな絶景がみれるとは、来てよかったです・・・

逆光での一枚、来島海峡です

                       隈 研吾氏による設計として知られるパノラマ展望台
隈 研吾氏といえば、2020年オリンピックでの国立競技場
そして、近場ではいえば、2025年3月、兵庫県伊丹市市役所庁舎とも知りました

こんな亀もいました


日本最大の海賊の本拠地 芸予諸島
戦国時代、宣教師ルイスフロイスをして「日本最大の海賊」と言わしめた「村上海賊」理不尽に金品を略奪する「海賊、パイレーツ」とは対照的に、村上海賊掟に従って航海の安全を保障し、瀬戸内海の交通・流通の秩序を支える海上活動を生業とした。
その本拠地「芸予諸島」には、活動拠点として築いた「海城」群など、海賊たちの記憶が色澄く残っている。
尾道、今治をつなぐ芸予諸島をゆけば、急流が渦巻くこの地の利を活かし、中世の瀬戸内海航路を支配した村上海賊の生きた姿を現代において体感できる・・・と、ある

そうそう、高知で知り合った若者、芸予諸島、全部、周ったと言っていたなぁ!




・・・四国、お城巡りの旅を終えて・・・

四国、お城巡りで、香川県、高知県、愛媛県と四国山脈を越え四国をα君で半周してきました

満タンで走ってきたのですが、やはり、松山市内で、GASメータが残り2つになりましたので、松山市内で満タンにし、今治へ、そしてしまなみ海道を走り、帰路、山陽道を走りました

途中夕食を済ませ、帰宅着時が、20時48分、総走行距離は、946.1kmでした
平均燃費、22.7km/Lで、まずまずでしたね

二泊三日で、七つのお城を、そして長い急な石段を登り、五つのお城の天守最上層までの階段を登り下りで、足、膝は、お疲れ気味です

されど、天候に恵まれ、無事に楽しい旅ができたこと、なによりでした
四国、よきところでした


訪れていない現存天守は、「松本城(長野県)」「弘前城(青森県)」の二城
絶対に、行くぞ!!と、決めました

さぁ、次は何処の地へ旅しようかなぁ!
楽しみです







2023年12月29日

四国、お城巡りの旅 日本屈指の海城、今治城

四国、お城巡りの旅の最後は、日本屈指の海城、今治城です


日本屈指の海城、今治城
今治城は、江戸時代のはじめ頃、築城の名手藤高虎か瀬戸内海に面した海岸に築いた名城です。軟弱な地盤(砂浜)にも関わらす、伊予半国(現在の愛媛県の約半分)20万石の大名にふさわしい城郭を技術の粋を結集して築き上け、高虎の代表作となりました。広大な域郭とその城下町は、その後の今治市の発展の基礎となりました。
今治城の特徴は、広大な水堀と高い石垣です。全国的にも大変珍しい海水を引き入れた海岸平城で、日本三大水城の一つに数えられています。堀は滝の干満で水位が変わり、海の魚の泳ぐ姿を見ることができます。
現在の天守は、昭和55年(1980)に市政60周年を記念して再建されたもので、内部は歴史資料館と自然科学館になっており、最上階からは市街地や瀬戸内海の島々、西日本一の高さを誇る石鎚山などが挑望できます。また、御金櫓は郷土美術館、山里櫓は古美術館になっており、鉄御門・武具櫢は木造の復元建物として内部公開しています。




中央、枡形、その左、鉄御門そして武具櫓
枡形虎ロと鉄御門
枡形虎ロとは、石垣やで囲まれた四角形の広場(枡形)をともなう城の出人口(虎ロ)のことです。特に堅團にする場合は内側と外側に 2門を設け、周囲をに屋状の物〔多聞櫓)て囲みました。この形は城の出入り口としては最も守リが堅い構造と考えられています
今治城の正門にあたる鉄御門は、この最も堅固な枅形虎ロの内側の門です。名前は扉や桍に貼られた鉄板に由来し格式の高い城にしかない特別な城門です。


今治城
今治城
今治城は堀に海水が引かれた近世の平城で、大手ニの丸に藩主の館を、三の丸大手口の表門に鉄御門、馬出(搦め手)口に山里門を置いていました。藤堂高虎は、慶長7年(1602年) 6月から今治城の普請を開始、慶長9年に完成しました。同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の多くの築城の縄張りに関与しています。従って、今治城は徳川系城郭の雛形と言われています。高虎の城づくりは、高石垣、広い堀、大手と搦め手を明確化、虎ロの出入口には桝形・方形の区画を設け、郭は四角形の構成を基本とすることが多い等の特徴が見られます。
高虎は豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康と多くの主君に仕え、城づくりと現場の体験から、高虎独自の工夫と、当時の最先端の技術を活かし、築城の名手として知られています。自らの居城としては、紀伊猿岡城、伊予宇和島城・大洲城・今治城、伊勢津城・伊賀上野城があります。豊臣政権下では秀長の命で、出石城、大和郡山城、聚楽第等を、秀吉の命では伏見城等を、徳川政権下では膳所城、再築伏見城、江戸城、丹波篠山城、丹波波亀山城、再築ニ条城、再築和歌山城、再築大坂城、淀城などを築いています。
今治城は海浜に立地する大規模な平城、層塔式天守、桝形虎ロ、舟入等城郭築城上、革新的なものが認められています。主要部を水際に置き、陸地部に郭を広げていく城郭縄張りは、坂本城、近江大津城、膳所城、彦根城等の織豊期につくられた琵琶湖湖畔の城郭に多く見られ、これらの城の縄張りを祖形にしたものと考えられます。慶長末から寛永年間にかけて徳川幕府は、巨大な城郭を天下普請として驚くべき短期間に築いています。層塔式天守等に見られる、単純で規則的な積み上げ構造は用材の規格化を容易とし、工期短縮も可能とするなど、高虎は城郭構築技術の発展に大きく寄与したと思われます。・・・案内説明板より

枡形

高麗門跡(上写真下部、灰色の部分)
鉄御門の手前にあったもう一つの城門(高麗門)
高麗門と鉄御門のニつの城門で、攻めてくる敵を食い止め、さらにニつの城門に挟まれた四角形の広場(枡形)に敵が侵入すると、周囲の多聞櫓から攻撃を加えることができました。最も守りが固い虎ロ(城の入口)構造で、藤堂高虎が創始した築城術の一つです。


勘兵衛石
今治城で最大の石
城主の権威を示すために目立つ場所に据えられた巨石(鏡石)で、今治城の入り口の正面にあります。石の名前は、今治城の築城奉行と伝わる渡辺勘兵衛に因んだもので、江戸時代には既に「勘兵衛石」と呼ばれていました。


鉄御門

鉄御門の再建は、平成15年「今治城築城・開町400年祭」の記念事業の一環として計画されました。三の丸の大手筋にあたるこの郭は、総鉄板張りの鉄御門を始め武具櫓・東多聞櫓・西多聞櫓の7連の櫓で形成されていましたが、明治4年に消失し、翌年には本丸・ニの丸の建築群と鉄御門桝形正面石垣も撤去されています。本計画は鉄御門・東多聞櫓・西多聞櫓及び東西控塀の一連の建造物を市民の寄付金により復元する事業です(武具櫓は昭和 55年再建)。上屋建物については、江戸時代末期の慶応3年、半井弄梧庵撮影の写真と芳野家文書を復元の基礎資料とし、史跡今治城跡整備検討委員会の指導のもとに設計されました。発掘調査については、事業開始にあたり平成16年2月から史跡整備の基本である試掘調査を行い、平成17年10月から工事に伴う事前調査を開始し、旧櫓台の根石や下部築石、門礎石(石灰岩の大石)が地中より検出されました。石垣修復には、重さ16t 、表面積8.9㎡の勘兵衛石を桝形正面中央に据え、出土大築石(表面積2.5~5m)は出土位置に配する等、遺構築石を全て再使用、不足築石のみ地元大島産の野石(花崗岩)で補充しています。修復石垣の面積は計314.9㎡、復元石垣面積は計337.1㎡に及んでいます。高虎時代の桝形地盤面は海抜5.8m と思われますが、現地盤よりかなり低く、復元は困難であるため、後世の久松期(海抜6.5~]6.8m)程度としています。これに伴い門前の石段・雨落ち等は同時期の形態を復元しています。建築物は、鉄御門・東多聞櫓・西多聞櫓は岐阜県・茨城県産欅材、背面冠木のみ岩手県産松丸太材を、東西多聞櫓は久万産他の檜材、小屋組は久万産の杉材と島根県・鳥取県産松丸太を使っています。鉄御門を初めとする 7 連楝の延床面積は769.2㎡となっています。


鉄御門



石垣のふしぎ
今治城の石垣には白くてつやのある石か混じっています。これは大理石で、石垣に使われるのは珍しいことです。所々に空いている穴は貝が空けたもので、もともと海岸にあった石か使われたことを物語っています。


今治城沿革
藤堂高虎公は慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の合戦に東軍徳川家康方の先鋒として戦功をたて伊予半国二十万三千石を与えられた当時諸大名中随一の築城の権威であった髙虎公は 内海において海陸の要衝である今治城地と定め渡造勘兵衛を築城奉行に木山六之を普請方として慶長七年より同九年にかけて城壁高さ六間乃至八間を築き本丸には五層の天守閣 その他には櫓城門等二十数棟を配し三重の城濠をめぐらしてこれに海水を導入して当時としては他に類例のない一大平城を構築した。また公は家康に信任され慶長十三年伊勢の津に国替え増討されたが天守閣は公が家康から丹波篠山の築城を命ぜられた時献じて亀山城に移築した。その後今治城は義子髙吉が二万石で維持し更に寛永十二年(一六三五年)に伊勢 長島より久松定房が入城し後後三万五千石で世々十代を経て明治維新となった。
現在の天守閣は昭和五十五年十月十日今治市制六十周年記念として再建され往時の偉容を再現するに至った。
今治城跡-昭和二十八年十月九日愛媛県教育委員会公 史跡として指定を受けている
今治市教育委員会


藤堂高虎像と天守

正面から・・・
藤堂高虎銅像のふしぎ
武将の像では珍しく、平服姿の騎馬像です。時代を先取りし、平和な時代の城づくりや城下町の発展を考えた高虎に相応しい姿です。平成16年(2004)に制作され、今治城のシンホルになっています。


天守、最上層へ
北西方向?

北方向?

北北東方向?

最上層からみる「吹揚神社」
吹揚神社は、今治城(吹揚城)内に、明治5年11月9日より鎮座しています。天守閣の真横ということで、大変珍しい神社です


武具櫓

今治城の堀の水
・堀のふしぎ
今治域の堀は海につながっていて、潮の満ち引きによって水位か変わり、ボラやチヌ(黒鯛)などの海水魚がたくさん泳いでいます。まみ、堀底から真水が湧いているところがあり、淡水魚のメダカもいます。多様な生物が生息するとても珍しい堀です。

左、山里櫓 中央、天守
・広い水堀と高い石垣で守る
城の形が単純であるため、各所に守リを堅める工夫をしています
内堀は幅が 50~70mもあリ、弓矢の射翼距離を上回る広さになっています。石垣の高さ は9~13m で、砂の上に立つ石垣としては驚異的な高さです。石垣の周リにある長い平地「犬走リ」は、地盤を強化するために設けられたと考えられます。


すばらしい、石垣です

築城の名手として名高い藤堂高虎の今治城、すばらしいものでした
残念ながら、天守ないは最上層からの眺めしか撮影できませんでした
内部は撮影禁止のため、写真はありません
撮影禁止は、どうしてでしょうかね?


配布パンフより航空写真を・・・

四国、お城巡りの旅として、現存十二天守を巡ってきました
丸亀城、高知城、宇和島城、松山城、そして、高松城、大州城、今治城
7城を巡りましたが、長い間の夢でした

また、機会があれば、逆回りも、そして、日和佐城、川之江城、徳島の川島城にも行ってみたいですね










2023年12月28日

四国、お城巡りの旅 現存十二天守「松山城」下山いたします

現存天守の松山城を巡りました
よき天気で最高のお城探訪でした

さぁ、下山します

太鼓櫓・・・ここから「黒門口登城道」へ

今回、ロープウェイの切符は片道
その訳は、「黒門口登城道」を歩いて下りることなのです(赤枠)
登ってくるのは、ややきついので、下りにしました

黒門口登城道を下ります

迷路のような石垣の重なり

振り返って・・・


振り返って・・・

見下ろして・・・おおぉ、つづら折りですね

また、振り返って・・・
ここって、江戸時代の舗装(石畳)をそのまま露出展示している所ではないかなぁ?

ほぼ、終着のようです

下りてきましたね

槻門跡
槻門は、本丸大手への登城道と二之丸搦手への道の分岐点に位置する重要な門で城内最大の楼門でした。西を正面とし、北を山裾の西大砲砲石垣に托し、南は渡塀か続いていました
古文書や古地図では、門の上部にニ重の櫓をのせ、南側には2階に、北側は3階の高さに平櫓が続いていました。このような楼門は、全国的に大変珍しいものでしたが、明治時代に取り壊されました。平成13年の芸子地震によって、北側の石垣が大きく孕み危険な状態となったため、同17年からニヶ年をかけて解体修覆工事を行いました。それに伴い発掘調査が行われ、櫓の規摸や北側のの石垣が東に拡幅されていたことが明らかになりました。また、石垣の孕みには、雨水の流人が大きく影響していたこともわかりました。この門の内側には、桁行六間、梁間三間とかなりの規摸をもつ槻門番所が置かれ、20人が配備されていました。このことからも、槻門周辺が、城の防衛上重要視されていたことがわかります。


お! 登っていかれるようです・・・頑張って!

二ノ丸史跡公園

案内図
・下、赤丸部分の橋の上から・・・


正面、松山市駅が見えます

左右に首を振って・・・

松山城外堀跡 西側

松山城外堀跡 東側


愛媛県庁庁舎(上赤枠)

定番、マンフォール
・市の花に選定された「ヤブツバキ」

左、伊予鉄道モハ50形電車
1964年製造の「74、75、76」の3両の内の76号
伊予鉄道モハ50形電車は、伊予鉄道に在籍する軌道線用電車で軌道線用車両の主力である



現存十二天守「松山城」を巡って、登城から下山まで、4回に分けて記事にしました
なにせ、まだまだ掲載したい写真が数多くありますが・・・

松山市、道後温泉には今回立ち寄らず、次回は道後温泉に行きたいものです


追記:記事中文言、配布パンフ、案内板、松山市広報より引用いたしました