四国、お城巡りの旅の最後は、日本屈指の海城、今治城です
日本屈指の海城、今治城
今治城は、江戸時代のはじめ頃、築城の名手藤高虎か瀬戸内海に面した海岸に築いた名城です。軟弱な地盤(砂浜)にも関わらす、伊予半国(現在の愛媛県の約半分)20万石の大名にふさわしい城郭を技術の粋を結集して築き上け、高虎の代表作となりました。広大な域郭とその城下町は、その後の今治市の発展の基礎となりました。
今治城の特徴は、広大な水堀と高い石垣です。全国的にも大変珍しい海水を引き入れた海岸平城で、日本三大水城の一つに数えられています。堀は滝の干満で水位が変わり、海の魚の泳ぐ姿を見ることができます。
現在の天守は、昭和55年(1980)に市政60周年を記念して再建されたもので、内部は歴史資料館と自然科学館になっており、最上階からは市街地や瀬戸内海の島々、西日本一の高さを誇る石鎚山などが挑望できます。また、御金櫓は郷土美術館、山里櫓は古美術館になっており、鉄御門・武具櫢は木造の復元建物として内部公開しています。
中央、枡形、その左、鉄御門そして武具櫓
枡形虎ロと鉄御門
枡形虎ロとは、石垣やで囲まれた四角形の広場(枡形)をともなう城の出人口(虎ロ)のことです。特に堅團にする場合は内側と外側に 2門を設け、周囲をに屋状の物〔多聞櫓)て囲みました。この形は城の出入り口としては最も守リが堅い構造と考えられています
今治城の正門にあたる鉄御門は、この最も堅固な枅形虎ロの内側の門です。名前は扉や桍に貼られた鉄板に由来し格式の高い城にしかない特別な城門です。
今治城
今治城
今治城は堀に海水が引かれた近世の平城で、大手ニの丸に藩主の館を、三の丸大手口の表門に鉄御門、馬出(搦め手)口に山里門を置いていました。藤堂高虎は、慶長7年(1602年) 6月から今治城の普請を開始、慶長9年に完成しました。同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の多くの築城の縄張りに関与しています。従って、今治城は徳川系城郭の雛形と言われています。高虎の城づくりは、高石垣、広い堀、大手と搦め手を明確化、虎ロの出入口には桝形・方形の区画を設け、郭は四角形の構成を基本とすることが多い等の特徴が見られます。
高虎は豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康と多くの主君に仕え、城づくりと現場の体験から、高虎独自の工夫と、当時の最先端の技術を活かし、築城の名手として知られています。自らの居城としては、紀伊猿岡城、伊予宇和島城・大洲城・今治城、伊勢津城・伊賀上野城があります。豊臣政権下では秀長の命で、出石城、大和郡山城、聚楽第等を、秀吉の命では伏見城等を、徳川政権下では膳所城、再築伏見城、江戸城、丹波篠山城、丹波波亀山城、再築ニ条城、再築和歌山城、再築大坂城、淀城などを築いています。
今治城は海浜に立地する大規模な平城、層塔式天守、桝形虎ロ、舟入等城郭築城上、革新的なものが認められています。主要部を水際に置き、陸地部に郭を広げていく城郭縄張りは、坂本城、近江大津城、膳所城、彦根城等の織豊期につくられた琵琶湖湖畔の城郭に多く見られ、これらの城の縄張りを祖形にしたものと考えられます。慶長末から寛永年間にかけて徳川幕府は、巨大な城郭を天下普請として驚くべき短期間に築いています。層塔式天守等に見られる、単純で規則的な積み上げ構造は用材の規格化を容易とし、工期短縮も可能とするなど、高虎は城郭構築技術の発展に大きく寄与したと思われます。・・・案内説明板より
枡形
高麗門跡(上写真下部、灰色の部分)
鉄御門の手前にあったもう一つの城門(高麗門)
高麗門と鉄御門のニつの城門で、攻めてくる敵を食い止め、さらにニつの城門に挟まれた四角形の広場(枡形)に敵が侵入すると、周囲の多聞櫓から攻撃を加えることができました。最も守りが固い虎ロ(城の入口)構造で、藤堂高虎が創始した築城術の一つです。
勘兵衛石
今治城で最大の石
城主の権威を示すために目立つ場所に据えられた巨石(鏡石)で、今治城の入り口の正面にあります。石の名前は、今治城の築城奉行と伝わる渡辺勘兵衛に因んだもので、江戸時代には既に「勘兵衛石」と呼ばれていました。
鉄御門
鉄御門の再建は、平成15年「今治城築城・開町400年祭」の記念事業の一環として計画されました。三の丸の大手筋にあたるこの郭は、総鉄板張りの鉄御門を始め武具櫓・東多聞櫓・西多聞櫓の7連の櫓で形成されていましたが、明治4年に消失し、翌年には本丸・ニの丸の建築群と鉄御門桝形正面石垣も撤去されています。本計画は鉄御門・東多聞櫓・西多聞櫓及び東西控塀の一連の建造物を市民の寄付金により復元する事業です(武具櫓は昭和 55年再建)。上屋建物については、江戸時代末期の慶応3年、半井弄梧庵撮影の写真と芳野家文書を復元の基礎資料とし、史跡今治城跡整備検討委員会の指導のもとに設計されました。発掘調査については、事業開始にあたり平成16年2月から史跡整備の基本である試掘調査を行い、平成17年10月から工事に伴う事前調査を開始し、旧櫓台の根石や下部築石、門礎石(石灰岩の大石)が地中より検出されました。石垣修復には、重さ16t 、表面積8.9㎡の勘兵衛石を桝形正面中央に据え、出土大築石(表面積2.5~5m)は出土位置に配する等、遺構築石を全て再使用、不足築石のみ地元大島産の野石(花崗岩)で補充しています。修復石垣の面積は計314.9㎡、復元石垣面積は計337.1㎡に及んでいます。高虎時代の桝形地盤面は海抜5.8m と思われますが、現地盤よりかなり低く、復元は困難であるため、後世の久松期(海抜6.5~]6.8m)程度としています。これに伴い門前の石段・雨落ち等は同時期の形態を復元しています。建築物は、鉄御門・東多聞櫓・西多聞櫓は岐阜県・茨城県産欅材、背面冠木のみ岩手県産松丸太材を、東西多聞櫓は久万産他の檜材、小屋組は久万産の杉材と島根県・鳥取県産松丸太を使っています。鉄御門を初めとする 7 連楝の延床面積は769.2㎡となっています。
鉄御門
石垣のふしぎ
今治城の石垣には白くてつやのある石か混じっています。これは大理石で、石垣に使われるのは珍しいことです。所々に空いている穴は貝が空けたもので、もともと海岸にあった石か使われたことを物語っています。
今治城沿革
藤堂高虎公は慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の合戦に東軍徳川家康方の先鋒として戦功をたて伊予半国二十万三千石を与えられた当時諸大名中随一の築城の権威であった髙虎公は 内海において海陸の要衝である今治城地と定め渡造勘兵衛を築城奉行に木山六之を普請方として慶長七年より同九年にかけて城壁高さ六間乃至八間を築き本丸には五層の天守閣 その他には櫓城門等二十数棟を配し三重の城濠をめぐらしてこれに海水を導入して当時としては他に類例のない一大平城を構築した。また公は家康に信任され慶長十三年伊勢の津に国替え増討されたが天守閣は公が家康から丹波篠山の築城を命ぜられた時献じて亀山城に移築した。その後今治城は義子髙吉が二万石で維持し更に寛永十二年(一六三五年)に伊勢 長島より久松定房が入城し後後三万五千石で世々十代を経て明治維新となった。
現在の天守閣は昭和五十五年十月十日今治市制六十周年記念として再建され往時の偉容を再現するに至った。
今治城跡-昭和二十八年十月九日愛媛県教育委員会公 史跡として指定を受けている
今治市教育委員会
藤堂高虎像と天守
正面から・・・
藤堂高虎銅像のふしぎ
武将の像では珍しく、平服姿の騎馬像です。時代を先取りし、平和な時代の城づくりや城下町の発展を考えた高虎に相応しい姿です。平成16年(2004)に制作され、今治城のシンホルになっています。
天守、最上層へ
北西方向?
北方向?
北北東方向?
最上層からみる「吹揚神社」
吹揚神社は、今治城(吹揚城)内に、明治5年11月9日より鎮座しています。天守閣の真横ということで、大変珍しい神社です
武具櫓
今治城の堀の水
・堀のふしぎ
今治域の堀は海につながっていて、潮の満ち引きによって水位か変わり、ボラやチヌ(黒鯛)などの海水魚がたくさん泳いでいます。まみ、堀底から真水が湧いているところがあり、淡水魚のメダカもいます。多様な生物が生息するとても珍しい堀です。
左、山里櫓 中央、天守
・広い水堀と高い石垣で守る
城の形が単純であるため、各所に守リを堅める工夫をしています
内堀は幅が 50~70mもあリ、弓矢の射翼距離を上回る広さになっています。石垣の高さ は9~13m で、砂の上に立つ石垣としては驚異的な高さです。石垣の周リにある長い平地「犬走リ」は、地盤を強化するために設けられたと考えられます。
すばらしい、石垣です
築城の名手として名高い藤堂高虎の今治城、すばらしいものでした
残念ながら、天守ないは最上層からの眺めしか撮影できませんでした
内部は撮影禁止のため、写真はありません
撮影禁止は、どうしてでしょうかね?
配布パンフより航空写真を・・・
四国、お城巡りの旅として、現存十二天守を巡ってきました
丸亀城、高知城、宇和島城、松山城、そして、高松城、大州城、今治城
7城を巡りましたが、長い間の夢でした
また、機会があれば、逆回りも、そして、日和佐城、川之江城、徳島の川島城にも行ってみたいですね