大阪府岸和田市岸城町9-1 岸和田城
2013年7月、訪れました
9年前です
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2013/07/blog-post_16.html
懐かしいです
その時の記事見れば、冷や汗がでてきます
なんという作り方か、いまもさほど変わってないよ?と、云われそうですが・・
写真は少々写りがよくなり、見やすくなっていると思っていますが!
では、城内へ・・・
櫓門
岸和田城絵図
岸和田城の変遷
建武元年(1334年)楠正成の一族和田氏が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことか ら「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりになったといわれています。 その後、信濃氏、細川氏、三好氏、松浦氏、中村氏、小出氏、松平氏とかわり、寛永17年(1640年)岡部宣勝が 入城、以来13代続き明治を迎えました。岸和田城の別称は「猪伏山滕城」。「勝」とは、機のたて糸をまく器具 で、本丸と二の丸を連ねた形が「膝」に似ているところから由来するといわれています。また、城は「千亀利城」 「蟄亀利城」とも書かれます。文政10年(1827年)、雷火により五層の天守閣が焼失し、昭和29年(1954年)、 その後に三層の天守閣が復興されました。城跡は、昭和18年(1943年)に、大阪府の史跡として指定されました。・・・案内板より引用
天守閣です
・・前回、入場しましたので、今回は、パス!
国指定名勝 岸和田城庭園(八陣の庭)
櫓門・・・
二ノ丸広場
二ノ丸隅櫓跡・・・じつは公衆トイレ
多聞櫓・隅櫓
サギが獲物を狙っていますね・・・微動だしません
城下町の街並み目の前に広がる瓦屋根は、岸和田城の城下町の面影がのこる街並みである。遠くに見える阪神高速湾岸線付近が現在 の海であるが、かつての海岸線は、『古今重宝記』によると「・・・二ノ丸石垣迄汐差入り葦原の所段々と海退に付當 事の傳馬口より坂口御門迄新郭出来町屋等建候由・・・」といわれ、この二ノ丸石垣下まで汐が入り込んで葦原であっ たとされる。その後、徐々に海が後退し、松平康重の治世(1619~1640年)に、浜側に防潮石垣が築かれ、城下町と して整備されていったとされる。
本町周辺の発掘調査では、現状の地表面よりおよそ1m下の層から豊臣期(1580年代後半~1590年頃)の唐津焼な どが出土しており、かなり古い時代から人々の住居があったことが窺える。つまり、汐が差し入ったという状況は、大 阪湾岸に昔から見られた海岸砂堆に伴う後背湿地で、淡水系の葦が生えていたと解釈するのが正しいであろう。
岸和田 城下町はこういった海岸砂堆の上に発展した町である。
海を意識した岸和田城の特徴を表していると言えよう。・・・案内板より引用
市民道場心技館 なかなか、石垣も素晴らしい
「大」という文字が刻まれている石があるようです
築城時代のものらしいですが、発見できませんでした
岸和田城のYouTubeを作成しました
4本目になります
記事内の画像と被りますが、ご容赦・・・
9年ぶりの岸和田城・そして初めてのだんじり会館・・・堪能いたしました
岸和田市は、まだまだ、見所はたくさんあります
また、訪れましょう
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