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2019年2月10日

郡山城跡・・・ 奈良県大和郡山市城内町2

奈良県大和郡山市・・「郡山城」に展望施設が完成~平成29年3月26日(日)一般公開を開始しました~

崩落の恐れがあった天守台の石垣の修復と展望施設の整備を、平成25年度から4年をかけて実施。
展望施設からは、大和郡山のまちなみとともに、平城京大極殿・薬師寺・若草山までのぞむことができます。
築城400年余の歴史を感じながら、郡山城を彩る春の桜、秋の紅葉、早春の梅などとあわせて、お楽しみください・・・大和郡山市より

・・・一般公開を知って、2年弱・・・やっと、来ることができました・・・

「P」は、DMG MORIやまと郡山城ホールを利用させていただきました

「DMG MORI やまと郡山城ホール」 
~市民が楽しみながら憩う「文化」のために~
地域の皆さまに様々なかたちで参加していただける総合施設です。最新設備を誇る大小のホールなどを備えた文化会館や図書館、武道場などがあります・・・
・・・本日はあいにく休館日でしたが、立派な施設ですね


近鉄橿原線と県道9号線が交差する踏切の南側・・・郡山城跡です

櫓が見えます

この踏切を渡り・・・城内へ

鉄御門跡


続日本百名城




郡山城天守台です

郡山城の歴史

天正八(1580)年、筒井順慶が入城、大和国唯一の城郭として築城を開始する。
同十三(1585)年に入部した豊臣秀長によって本格的に整備された。
文禄四(1595)年に入部した増田長盛による外堀普請で完成した城郭の形状は現在までその姿を良好に保っている。
関ヶ原の戦い後、一時在番支配となるが、大阪・京都に近い要衝として幕府に重要視されて元和元年(1615)に復興。
水野・松平・本多といった譜代大名が相次いで城主を努める。
享保九(1724)年、甲斐国甲府より柳沢吉里が入部する。
以降幕末まで安定した治世が続き、江戸時代を通じて大和国の政治、経済、文化の中心地として繁栄した。


さぁ、天守台へ・・
後方の建物は、奈良県立郡山高校 城内学舎

・・・天守台の構造・・・
本丸の北端部に位置する。城内でも高所にあり、東方への眺望が開ける。平面形が上面で約16×18m、基底部で23×25mの南北に長い長方形で、高さは約8.5m。南側に高さ約4.5mの付櫓台が取りつく複合式の形態である。
石垣は野面積みで、自然石の他に石仏や礎石、墓石などの転用材が多く用いられている。
逆さ地蔵は特に有名である。明治時代には天守台に「植松桜碑」という石碑が、付櫓台には柳沢保申公を祀る祖霊社が建てられ現在の東側からのぼる石段もこの時期につくられた。天守に関する史料がほとんど存在していなし。実態は不明な点が多く、「幻の天守」ともいわれてきた。


・・・天守台からの眺望・・・
天守台は標高81m、城下町地帯は53m、比高は28mしかすぎないが、見晴らしが効く立地をとっている。
特に東方へに展望はが開け、大和東山の連山が一望できる。
平城京、南都の諸寺、龍王山、三輪山、大和三山など。
西側は矢田丘陵~二上山、金剛葛城山系が望める。
大和国を支配するために好適な地だったことがよくわかる。


絶景です
・・・遠く、若草山、その麓に大仏殿、右には興福寺の五重塔が望めます

パノラマ写真です

西側 法隆寺、信貴山、松尾山、矢田丘陵が望めます

発掘で明らかになった「幻の天守」

天守については、絵図や文献がほとんど残っていないため、実在していたかも含めて諸説粉々となっていました。
平成26年の発掘調査で礎石を発見。「幻の天守」は、ようやくその実在が確認されたのです。
礎石には1m前後の自然石を用います。礎石が取り外された部分には礎石を支えた根石がみられ、石があった位置がわかります。
礎石は列状に並べられていますが、その上には土台となる木材が横方向に置かれ、その上に柱が立てられたのです。
礎石や根石の中には、石仏や石塔を転用したものもみられます。
礎石を覆う土からは、豊臣大阪城金箔瓦と同じ笵(文様の型)を用いた軒丸瓦や聚楽第に類例のある文様に軒平瓦などが出土しました。
これらの瓦から、天守礎石の年代は豊臣政権期と考えられます。この天守は関ヶ原の戦い後に解体。以後、郡山城では天守は再建されなかったようです


礎石位置

天守台・・・西側から


白沢門櫓台石垣整備中
・・・夢の「極楽橋」を再現しよう・・イイスね! ガンバレ!!



天守台を中心に巡ってきました・・・
見晴らしが効く立地、天守台に立って、その地が、大和国を支配するために好適だったことが、よ~く、わかりました

城内に建つ、建造物は、次回に・・・


追記:説明文は、城内案内板、大和郡山市HPより引用いたしております



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