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2017年11月11日

高倉神社・・・文化財を巡って・・京都府綾部市高倉町奥路45 

京都府綾部市の文化財を巡っています・・・

府指定文化財、高倉神社拝殿・・京都府綾部市高倉町奥路45を、訪ねます!

大きな「P」がありますね・・・参拝者も多いようですね・・

        綾部の古木・名木100選・・・「スギ」

高倉神社由縁略記


治承年間、平清盛横暴を極め壇に朝権を寿し、畏くも後白河法皇を幽閉し奉りしを以て、孝心深き第二皇子高倉宮以仁王は、父君を幽閉より救い、更に皇室の隆盛を挽回せんと、源三位頼政に令旨を下し賜ふ。
頼政奉じて勤王の兵をあげ、治承の難に至る。 逸道の激戦に官軍利あらず、頼政は宇治の平等院で自刃。宮は南都へ御落延の途中光明寺下で流れ矢に当たり、薨御と偽り、実は近臣大槻光頼、渡辺俊久等十二士と潜に頼政の領地丹波路に供奉し、宮をして一時の危難を避け奉りしが、宮は不幸当地に御着馬の頃から、御矢傷次第に重く、治承四年六月九日吉美郷里村で薨御し給ふ。
翌養和元年九月九日神霊を奥谷の森合の高倉に(現在地)奉遷し、高倉天一大明神と勧請せり、 尓来御神徳は四方に輝き、世直しの神、五穀豊穣、万病平癒、殊に胃腸病の快癒に御霊験高く、腹痛救護の神と世人の崇敬を聚め給ふ。  
降って元文年間神殿挙げて回録に罹り、旧記神宝悉く鳥有に帰したが、御神像のみ火中より収めて神殿に奉安した。神殿の再建は延享三年に落成したが、建設以来星霜を閲し、再び廃頽に傾き、明治四十年再建を計画、同四十三年八月竣工、旧神殿は拝殿に改造し、新たに神殿竝びに透塀を造営、神域も拡張した。更に昭和五十三年奉紀八百年を記念し、宮の遺徳を追慕顕彰せん為、拝殿の前に神札授与所、大鳥居附近の参道石畳の新設、社務所の修復、新社務所の屋根の葺替、駐車場の新設等、広く氏子竝びに十二士後裔その他信仰者有志の多額の寄進を得て、昭和五十五年文字通り神社の面目一新、近郷稀に見る神社として整備された。
・・・高倉神社 社務所・・・



高倉神社のヒヤソ踊

天一さんとよばれる高倉神社は、養和元年(1181)高倉以仁王をまつった古社である。祭礼は吉美地区六町の総社として、十月十日に行われ、高倉町の本社から里町の御旅所へ神輿の行列があり、ヒヤソ踊りは、この祭礼に奉納される田楽である。 この田楽は、中世に始まると思われ、昭和五十一年綾部市指定文化財に指定されている・・・ 綾部市教育委員会


拝殿・・・美しいですね!・・・実は、旧本殿!

京都府登録文化財  高倉神社拝殿  建造物 1棟  江戸時代 
桁行三間、梁行二間、一重、切妻造、唐破風造拝所付、銅板葺

旧本殿である現在の拝殿は、寛保三年(1743)に木日初延享三年(1746)に遷宮された。
拝殿は、切妻造)建物に唐破風造の拝所が付く。妻を二重虹梁、妻)壁を二段階で前面に押し出す。
屋根は現在銅板葺であるが、もとは桧皮葺であった。

建物は妻側の構成以外にも、正面にある唐破風造の拝所が外観上の大きな特徴となっている。当建物のように拝所を構成する例は、当地域を中心に多く見られる。

棟札によると大工は播州三木の室田庄右衛門家久と仁右衛門重家、彫物師は大坂の長谷川如泉、屋根葺師は福知山の松元五右衛門である。

建物は全体的に装飾的な意匠となっており、氏子がいかに本殿再建に尽力したかがうかがえる
・・・綾部市資料館より引用・・・

・・・飾り金具の金色が、眩いです・・・

彫物師は大坂の長谷川如泉・・・と、ある
欄間・・・


見事です・・・ これでもか!・・・って、いうぐらい、彫刻の数ですね

拝殿、左、妻飾り・・
・・・妻は二十虹梁大瓶束するが、下面で、二手、上面で、一手虹梁を持ち出しており、妻壁を二段階で前面に押し出す・・・


蟇股

拝殿、裏面の欄間彫刻もすごいね・・・

現在の本殿・・・

拝殿、右、妻飾り・・・



          綾部の古木・名木100選 「スギ」 幹周5.7m 樹高33m



振り返って、拝殿、色づいた、イチョウを・・・・多分、台風21号で、葉は落とされたかも・・・
いや~!! 見事な拝殿、彫刻・・・見飽きませんね・・・時間が足りません・・・
そして、やや陽が西からあたり、明暗が・・
この、彫物師、大坂の長谷川如泉で、調べてみましたが、出てきませんね?

高津八幡宮といい、高倉神社といい、拝殿の規模の大きいですね・・・

いやいや、名残惜しいです・・・(*^_^*)








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