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2017年6月7日

津山城(鶴山公園)・・・岡山県津山市!

岡山県津山市・・・津山城!
日本百名城 No.67・・国の史跡、梯郭式平山城、日本三大平山城の一つである

そう、名前は知っていますが・・・しかし、なかなか、訪れる機会のある場所(市)ではありません
今回、八頭郡智頭町、石谷家を訪ねました・・・その行程で、国道53号線を南下してやってきました!

津山城・・・現在は鶴山公園として、日本さくら名所100選にも選ばれている・・と!



鶴山公園は、入園料が必要です・・・300円!






忘れ去られた石
 平成10年の台風10号通過後、津山市大谷の石山登山道近くの谷川で、津山城築城時に切り出されたと思われる石が見つかりました。 石の重さは約2.3トン、近くにある「津山城石切場跡」にある矢穴(石を割るためにノミで穿った穴)と同じ大きさものが石の上下に計9か所残っています
津山城築場時に切り出された石に一部であることは間違いなく、何らかの理由で築城現場まで運ばれなかったようです。この石は「忘れ去られた石」と名づけられました。  平成16年3月に谷川から引き上げられ、同年5月の津山城築城400年記念事業「津山歴史時代絵巻~築城大石曳き~」で大谷町内のみなさんによって"歴史石曳き"として修羅(巨石などを運ぶ木製のそり状の運搬具)に載せて市内中心部を約400メートル曳かれた後、津山城跡近くに約400年ぶりに届けられました・・・案内板より引用


津山城跡 ・・・・国指定史跡 (昭和三八年九月二八日指定)
津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長九年(1604)に起工し、元和二年(1616)の完成まで一三年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
 往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。
また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には七〇余の部屋からなる御殿と庭園がありました。  
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
明治六年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌七年から八年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
 その後、明治三三年(1900)城郭は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和三八年に国の史跡に指定されました。

「歴代城主」・・・森家・・・
 森家は清和源氏で、初代津山藩主森忠政は、美濃金山城主森可成の六男に生まれました。慶長八年(1603)徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島13万7500石の大名から美作一国18万6500石の大名に抜擢されました
この忠政は、本能寺の変で主君の織田信長とともに壮絶な最期を遂げた森蘭丸の末弟にあたります。森氏は四代九五年にわたって美作国を治めましたが、四代城主長成に嗣子がなく津山森家は改易となりました。
その後、森家は二代藩主長継の子長直 が備中国西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永三年(1706)播磨赤穂に移りました。
・・・松平家・・・
森家にかわり10万石の大名として新たな津山藩主となった松平宣富は、徳川家康の第二子結城(松平)秀康の曾孫で越前家と呼ばれ、徳川一門中に重きをなしていました。 そして明治四年(1871)に廃藩となるまで九代一七四年にわたって続きました・・・案内板より引用



森 忠政 (1570~1634)
幼名を千丸。元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。
京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。
天正一二年(1584)兄長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山七万石を与えられる。
のち徳川家康に仕え、慶長五年(1600)信濃(長野県)川中島13万7000石を領す。
同八年美作国一円18万6500石を与えられ津山に入封。翌九年より津山城の築城に着手、また城下の街づくりを始め、現在の津山の基をなした。
寛永十一年(1634)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年六五歳。なお、この像は津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである
・・・案内板より引用



表門から入り、正面は、鶴山館への石段・・・でも、まずは天守台を目指します
鶴山館への石段の前を左へ三の丸へ・・・
・・・この石垣は、修復されたと、銘板がある・・・しかい、最初にドンっと、覆い被さるように立つ!


表中門・・・
・・・歩いている方と比べると、幅の広い、そして、高さのある石段、なかなか、上りづらい石段である・・戦い時は防御となる・・・
左側は、上がれない方の為に、高さ調整用の木材をおいてあり、それで、普通の石段ぐらいの高さである・・・
それにしても、みごとな石段、石垣である・・・!
表中門を左へ・・・二の丸です・・
・・・見上げれば、備中櫓の姿が・・・美しいです・・・

切手門跡・・・
切手門跡を上がり、振り返ると・・・備中櫓、撮影ポイントです

表鉄門・・・
概要・・・
表鉄門は、本丸への入り口にある櫓門で、門扉全体が鉄板で覆われていたことからこの名前がついています
表鉄門を北向きにくぐると、西向きに石段があります。石段を登り、南に180度方向をかえると、そこに本丸御殿の玄関があります
この玄関は、先に門をくぐった表鉄門二階の櫓部分にあたり、全体は北に向かってのびる「コ」の字形をしていました(右下の絵図を参照)
玄関の石段を東向きにのぼると、式台と呼ばれる板敷きの部屋があり、四十二畳の「広間」へ続きます
東南隅の小部屋を過ぎて北に折れると、「旗竿の間」があり、さらに西に折れると、「鑓の間」と続きます。ここから北に向かうと、御殿の大広間につながります 表鉄門は、城門としてだけでなく、二階の櫓内部は本丸御殿への正式な入り口としての役割を持っていました。本丸の面積が狭く、限られた敷地を有効に利用するためにとられた手段のひとつであったのでしょう。 文化六年(1809)の火災により、本丸御殿のすべての建物及び表鉄門、裏鉄門などは焼失しています 表鉄門と両脇の石垣が再建されたのは、8年後の文化十四年(1817)です 東側にある石垣を観察すると、熱を受けて赤く変色した石を確認できます・・・案内板より引用

城内表玄関・・・
・・・ここから常用の部屋が北へ廻り廊下に、左に渡って奥の用場へ通じますが、本丸一帯を建てこめた部屋数は上段を合わせて六十七室、畳の数は1400畳余でありました・・・
本丸跡
本丸跡より、切手門跡を望む・・・


備中櫓・・・

概要 ・・・ 
備中櫓は本丸御殿の南西端に位置し、その名は鳥取城主池田備中守長幸に由来すると伝えられる。森藩時代の基本的な資料である『森家先代実録』には「備中矢倉 池田備中守長幸入来の節出来」とある。森忠政は長女於松を池田備中守長幸に嫁がせており、長幸は忠政の娘婿にあたる。その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられている。備中櫓跡の発掘調査で池田家の揚羽蝶紋の瓦が出土したことも、この建物が池田家と深い関係にあったことを物語っている。  
備中櫓の外観は漆喰仕上げで通常の櫓と同様だが、本丸御殿指図には備中櫓がその東に接続する長局・到来櫓とともに描かれており、これらの建物が御殿の一部として認識されていたことを示している。 さらに指図によると内部には御座之間や茶室を備え、建具には「唐紙」を用いるなど、内部は完全に御殿建築であり、なおかつ繊細で女性的な仕上げであったことがわかる。そのためこの櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、城主にごく近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられている。  このような特異な構造を持つ櫓は類例が少なく、津山城の建物の中でも特徴的なものであるため、復元整備の対象となったものである


天守台・・
概要・・・
津山城の天守は、地上五階建てで、最上階以外に破風を持たない質実な造でした
高さは石垣を除いて約22mで、一般的な五層の天守としては最大規模のものです
形は、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型」と呼ばれる物です
この壮大な天守を支える礎石は、地下の穴蔵部分で確認されています。上から見ると、平らな礎石が並んでいり様子が分かります
絵図と比較すると、柱の位置と礎石の位置はほぼ一致しています(右下の写真)
柱は、約38cm角もある巨大なものであったことが分かっています
天守をはじめ場内の建物は明治7年から8年(1874~75)にかけて取り壊され、石垣を残すのみとなりましたが 、その後昭和11年(1936)に開催された「産業振興大博覧会」の呼び物として本来の3分の2の天守が建てられました(右中断の写真)「張りぼて」の愛称でしたしまれましたが、空襲の目標になるという理由から、昭和20年8月に取り壊されました

天守台より、平らな礎石をみる・・・

天守台より望む、備中櫓の姿・・・
天守台より、栗積櫓跡(小天守)を望む・・


森候入封満三百年記念碑・・・

栗積櫓跡(小天守)・・・
左上隅が市役所・・・
石垣の上は「もみじの小道」と・・・

もみじの小道の出口?・・・

表中門・・

表門へ・・・藩校、鶴山館を望む・・(今回は、時間の関係で、拝見できませんでした)
左下・・津山観光協会?



日本百名城 No.67・・国の史跡、梯郭式平山城、日本三大平山城の一つである、津山城…
訪れてみて初めて分かる凄さでした…

石垣ファンにはたまらんでしょうね…いやいや、凄いです!!
時間さえ許せば、全ての櫓跡に立ち、眺めてみたいです…

鶴山公園・・・日本さくら名所100選…桜の時期、訪れてみたいものです

よき、お城でした・・・・






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