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2017年6月30日

史跡 丹後國分寺跡・・・京都府宮津市

中井権次一統の足跡を巡っています・・・

訪問予定の、丹後国分寺へ・・・
その、丹後国分寺を訪れるまえに、隣接する広大な地が、「史跡 丹後國分寺跡」があります

まず、その、「史跡 丹後國分寺跡」を歩いてみます

正面に、天橋立を望むことができ、民家が無い時代であれば、最高の景色でしたでしょうね・・

史跡 丹後國分寺跡

天平十三年(741)聖武天皇は國分寺建立の詔を発し、仏教をとり入れて国家の安泰を願いました
この詔をうけて建立された丹後國分寺は、天橋立を一望できる台地上に位置し、まさに詔にいう国華にふさわしい好処が選ばれました

ところで、奈良時代の丹後國分寺については、付近に残る地名や採取された瓦片によってその存在を窺い知る程度で、詳しいことはわかっていません

現在、塔跡、金堂跡、中門跡の三ヶ所に、礎石が整然と並んでいます
これらは、建武年間(14世紀前半代)に再建された伽藍が伴うものとみられます
雪舟筆「天橋立図」には、建武再建の後、約170年間を経た丹後國分寺の姿が克明に描き出されています・・・
・・・案内板より引用


塔跡・・・
16個の礎石がのこる・・・
金堂跡・・・
35個の礎石があります


草むらの中の小道を歩き、塔跡、金堂跡を、見てまいりました・・・

先日、山口県防府市を旅いたし、周防國分寺を拝見いたしました
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2017/06/blog-post_29.html


恐らく、同規模の伽藍が建っていたのではと、想像しますが・・・
現在の礎石は、創建当時のものではなく、建武元年(1334)再建時の礎石であると云われ、ほぼ、創建当時の礎石の位置らしいと云われています・・
江戸時代には寺院が移転したため、「本堂屋敷」として地名が残ったと・・・

機会があれば、備中國分寺を訪ねてみたいですね・・・



訪問日:2017年6月5日










2017年6月29日

中井権次一統・・・11代目にお会いすることができました!


2017年3月14日、篠山市、文保寺で、知った、 中井権次の名・・・
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2015/03/blog-post_14.html

それ以来、ガイドマップを購入して・・・我が家の近い所から、調べ、探して、中井権次一統の足跡を拝見してまいりました・・・その数、90社になりました・・・


そう、心に暖めていました・・・いつか、中井権次一統の末裔、11代目にお会いしたい・・・
・・・11代目、光夫さんです・・・宮津で彫刻店を営んでおられます
ガイドマップより引用

ついに、その日がやってきました・・・いや、勝手に押しかけていきました・・・
2017年6月5日・・晴天、朝、目覚めたら、うん? 宮津へ行こうか? そや、行こう・・・とね!
お留守でもかまわない、なにせ、今の中井家を訪れてみたい・・と!
アポなしで、店の戸を開け、お訪ねしました・・・

・・・店内より、 「α君」がいます・・

・・・私・・・突然にお伺いし、誠に、申し訳ありません・・・ガイドマップを見せて・・・
  このように、南から北へ、中井権次一統、ガイドマップに沿って神社仏閣をまわっていますと・・・

11代目、光夫さん・・・そうですか、それはそれは・・と、心よく、応対頂きました・・・
・・そして、先祖の(多分、九代目、貞胤(喜一郎)さんと思います)宮津での生活ぶり、戦時中のこと・・今に至る、お話をお聞かせいただきました!

いや、想いがかないましたね・・・(*^_^*)


そして、店内に飾ってある彫物、書など、許可をいただき、撮影させていただきました・・・m(_ _)m

舞い上がっていたのでしょう・・・何代目かの作品かも、聞かず・・・(^^;)


ほんと、お顔も、お話の仕方、お心・・・この絵のとうりの、お方でした・・・
約一時間弱、お話をお聞きして・・・最後に・・・

・・・心を込めて、彫り上げたものです・・心して、見てください・・きっと、感じるところがあります故!
そして、気をつけて、頑張ってくださいと・・・

いや! 私にとって、非常に重いお言葉です・・・今までの彫物の見方が間違っていたかも・・・
これからは、心して、拝見いたします・・・m(_ _)m

では、今から、宮津の中井権次の足跡をまわります・・と、言って、失礼をいたしました・・・



写真下は、西宮津公園からです・・・いざ、出発です
天橋立が見えます・・・
この時の心境は、この天気、景色のように、晴れやかなで、心、気持ち良さを満喫しています


中井権次顕彰会も会員が200人もおられるようで・・・盛況なことはなによりです・・・

11代目、光夫さん・・・お元気で、お過ごしいただけるよう、祈ります・・・
また、宮津へ出向きます・・・その折は、作者を聞いてみたいものです・・・


・・・・お会いでき、本当に、良かったです・・・・



訪問日:2017年6月5日



追記:後日、分かったのですが、前出の龍・・・七代目中井権次橘正次のようです





2017年6月28日

周防國分寺・・・国指定重要文化財・・山口県防府市国分寺町!

山口県防府市を旅しています・・・
・・・山口県の旅も、いよいよ、最後の訪問地、国指定重要文化財、周防國分寺です・・・


周防國分寺とは・・・・
周防国分寺は、多数の文化財を保存した極めて歴史的価値の高い古刹である。北に多々良山を負い、南には防府市街をとおして三田尻湾を望む景勝の地にそびえ立つ大伽藍は、創建当初の地にあり、国分寺の堂塔 の偉容をあらわしている。
 当時は、金光明四天王護国之寺又は金光明寺など、いろいろな寺号があったが、後に浄瑠璃山国分寺と称せられるようになった。
奈良時代の天平十三年(741)聖武天皇の勅願によって、国家の鎮護と国民の景福を祈願するために国ごとに建立された由緒ある官寺の一つである。
本寺が創建された奈良時代は、わが国律令政治の栄えた時で、国分寺は宗教によって国家を統治する勅願所で、皇室との因縁が特別に深く、住昔の規模が壮大であったことは、その寺域の面積が六十一町歩余りにまたがり、七堂伽藍と二十五ケ寺の塔頭と末寺を擁していたことでもうかがえる。
後世、寺領の減少や維新後の寺院制度の変革等により、その規模は縮小され、現在では往時の遺構遺跡と建造物の一部を残すのみになったが、今なお仁王門をくぐると荘重な大金堂がある。
ここには多数の国宝的仏像が安置されており、他の歴史的文化財と共に宗教上、学術上の一大宝庫をなしており、旧態を現存することにおいては、全国国分寺中極めて稀である。
本尊は創建当初丈六の釈迦如来であったが、奈良時代の終わり頃から平安初期には薬師如来に替わっている。
寺格は現在高野山真言宗に属する別格本山である。
本寺がこうして旧格を維持し、歴史の各時代にまたがる豊富な霊仏至宝を保存してきたことは、実に聖武天皇の聖徳と歴代天皇の信仰の賜であり、また周防国府の力や大内氏、毛利氏の歴代国主の崇仏保護が非常に厚かったからである。
多数ある寺宝の中で後奈良天皇宸筆般若心経及び金堂、並びに堂内の薬師如来、日光・月光菩薩立像、四天王立像及び持仏堂内の阿弥陀如来坐像など、八躯が国の重要文化財に指定され、国分寺旧境内は史跡に指定されている。・・・案内書より引用


仁王門(楼門)である・・・

仁王門(楼門)一棟・・・県指定有形文化財
この門は、三間一戸、潜り戸付きで屋根は、入母屋造、本瓦葺、高欄、組物、二軒扇垂木、花頭窓など、禅宗様式を取り入れて、全体に美しい構成である 門の左右には、室町時代の製作とされる、一対の阿吽形の金剛力士(仁王)像(像高350cm)を安置する仁王門である かっての門は応永二四(1417)に焼失したが、文禄五(1596)に毛利輝元が再建し明和四(1767)毛利重孝公が大改修をし、近くは昭和32年(1956)に解体修理を行なっている このように建立年代は古いとは云えないが創建当時の境内地にあり、大寺院の山門にふさわしい規模と構成を備えた建造物である また、楼上には十六羅漢を安置している (山口県文化財)




残念ながら、写真はこれぐらいしか、撮影できませんでした・・・仁王さん、・・・m(_ _)m
楼門をくぐると・・・・広い! が、第一印象・・
金堂・・・国指定重要文化財

二層入母屋造り、桁行七間、梁間四間、棟高18m、本瓦葺き、建坪116坪

荘重な二層入母屋造の仏殿で建坪百十六坪余、堂内の須弥壇は桃山時代のものと伝えられている。
往古のものは応永二十四年焼失したので応永二十人年大内盛見が再建した。
現存の仏殿は安永八年(1779)毛利重就の建立したものである。
 内陣には大小五十余躯の仏像が安置されて丁度古美術飴の観がある。
須弥壇上中央には丈六の薬師如来が本尊として安置され、そして日光菩薩、月光菩薩の立像が両脇侍として控え、その前に十二神将が護持し、壇の四方には四天王四躯が守護の座についている。
この外堂内の左右並びに後堂には阿弥陀如来立像をはじめ多数の仏像が処せましと安置され荘厳この上もない
・・・配布パンフより引用

いや~! 見事な建造物、金堂ですね・・・大きさに、圧倒されます・・・


楼門脇の巨木・・・
この付近に奈良時代國分寺創建当時、七重塔が建ち、火災で焼失、鎌倉時代に五重塔に、その後、伽藍全体の際、焼失、現在にいたります
五本線の筋塀・・・御所、門跡寺院、勅願寺院で用いられ、五本を最高とする・・・

金堂を裏側から・・・

向拝の、梁の蛙股には、虎? 猫? わからないが、彫物があります・・・

破風・・・懸魚、妻飾りも、いいすね・・・

聖天堂・・・秘仏聖天像を祀る・・開運、商売繁盛などあらゆる願望、悩みを救ってくれると・・・

ググってみました・・・金堂内、拝観できたようですが・・・

               

山口県山口市、防府市を旅してきました・・・
・・山口市・・ある御仁の影響で、長州藩、吉田松陰関連をよく見聞きする機会が増えていました・・

幕末から明治維新の出来事が、人物が、この地に居たこと・・うん!うん!と、一人頷きながら、案内板やパンフを読んでいました・・・

萩・津和野は、いまだ、未踏の地ですが、今回の山口市、大内家、毛利家の遺構がほとんどですが・・・
いやいや、すてきな地です・・・もう一度訪ねてみたい気持になりました・・そう、機会あれば、嫁、連れてこなければ・・・とね!

と、いうことで、山口県山口市、防府市のを旅を終わります・・・m(_ _)m



帰途、下松パーキングエリア・・・遅めの昼食を・・・
そう、このバリっ太そば・・を、食べたかったのです・・・
なんで、鳥の唐揚げが付くのかなぁ?
・・・見た目、皿うどん・・・でも、なかなか、おいしかったです・・・(*^_^*)



参拝日:2017年5月25日







防府天満宮・・・山口県防府市松崎町

山口県防府市を旅しています

~日本最初の天神さま~防府天満宮・・・来てみたかったのです・・・
しかし、写真下、左はまちの駅のようですが、「P」は満車・・・右へ走って、臨時「P」があり助かりました

でも、これは、屋台か? いや、フリーマーケットか? ちと、驚きです・・・(後日、わかりましたが!)


表参道
昔の山陽道に面して建つ高さ6m近い大鳥居は、寛永六年(1629)年、萩藩初代藩主毛利秀就の寄進で、年代の明らかな石の鳥居では県下最古といわれる・・・
青銅の中鳥居・・・

おや、その青銅鳥居の脇におるのは、おおぉ、見事な狛犬ですね・・・



           少し考えて、店、出してほしいものですね・・・



幕末史跡、萩狛犬・・

文久二年(1862)に寄進されたこの狛犬は、萩の石工「武林唯昌」とあることから萩の狛犬と呼ばれている
北野天満宮、太宰府天満宮も同様の萩狛犬が建立されており、幕末における長州藩での天神信仰の広がりを感じさせる
禁門の変で長州藩は敗走。その後、京都守護職の会津藩が北野天満宮に鳥居を奉納。しかし、鳥居の側に奉納されていた萩狛犬を会津藩士が見つけ「長州獅子、汝まだ去れざるか」と神社に撤去を要求、実力で倒そうとしたところ、一天にわかにかき曇り雷鳴が響き渡りました。会津藩士は、雷神である菅原道真公の祟りと恐れ逃げ帰ったと伝えられています・・・案内板より引用



       ・・・台座・・見事ですね・・・



萩の石工「武林唯昌」でググってみましたが、情報は、見つかりませんね・・・


・・・進みます・・・

大専防・・・(県指定史跡)

防府天満宮の表参道に面した両側には、明治維新まで九つの社坊(西側に大専坊・西林坊・東林坊・密蔵坊・会所坊 、東側に宴楽坊・等覚坊・乗林坊・千蔵坊)が立ち並んでいて一山の総合を酒室山萬福寺と称した
大専坊はその一山の別当坊で、天満宮創建当時の草創という
この坊は、弘治三年(1557)毛利元就が大内義長を山口に攻めこれを長府で自刃せしめて防府両国を平定するまで元就の 参謀本部となった
また尊皇攘夷で激動した幕末はこの地方を警固する諸隊の屯所とばった・・・山口県指定史跡


石灯籠の並ぶ急な石段の先に、楼門が見えてきました・・・

重層楼門・・・
・・・じつに美しいですね・・・

向拝の見事な極彩色の彫物、見とれてしまいます・・・

拝殿・・・国登録有形文化財
・・拝殿:入母屋造、平入、向拝付、桁行五間、梁間三間

防府天満宮は、学問の神様、菅原道真公(845-903)を始め、公の祖先である天穂日命、武夷鳥命、野見宿禰の四柱をお祀りしており、延喜四年(904)創建の日本で最初の天満宮です

           
神殿前の青銅狛犬
萩藩七代藩主毛利重就は、寛政元(1789)年焼失した社殿すべてを造営した。拝殿両脇の青銅狛犬は、造営工事を司った国司就相等が完成を記念して寄進したもので、制作者は桑山の大楽寺の鐘と同じ、郡司信則、信之父子(市内鋳物師の出)である。昭和27年の火災のとき被害を受け、大阪で修復している・・・防府市案内より引用






春風楼・・・
国登録有形文化財・・・

春風楼は、十代藩主毛利斎煕が社頭に五重塔の建立を思い立ち文政五年(1822)六月大専坊において地鎮供養の祈願をし 釿始めの儀を行ったが資金調達中天保二年(1831)不慮の支障に遭し一時中止の止むなきにいった
その後、塔の設計を現在の重層の楼閣様式へ変更して明治六年(1873)に完工した
この楼の床下の木組は、文政年間着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組み物を使用したもので当時の面影を偲ぶに充分である

この楼上からの眺望は四季折々誠に絶景で春風楼の名にふさわしい・・・案内板より引用


木造二階建で入母屋造、桟瓦葺、桁行三間、梁間三間、御影石の基壇の上の土台に据えられている・・・
大ミス・・残念なことに、床下の組物を撮影するのを忘れていました・・・

一層?の壁面に奉納額が・・・見事な彫物です

いやいや、見事な龍の彫物がありました・・・明治三?年 藤井? まで、判読できるが・・・
判読不可っていうか、読めない・・・

防府市内の眺望・・・

もう、訪れる機会はないと思います・・・もう一度、眺めておきます・・・
降ります・・・
ググってみました・・・毎月25日は天神さまの縁日 天神市・・と、・・・m(_ _)m

北野天満宮は行ったことがありません・・・
5月23日、太宰府天満宮を予定していたのですが、急に予定変更で、断念・・・

生きている間には、参拝できる日は訪れるでしょう・・・(*^_^*)



             


参拝日:2017年5月25日