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2015年12月16日

伊賀上野・・史跡、旧崇廣堂・・・三重県伊賀市

国 史跡、旧崇廣堂・・
・・・伊賀上野城、白鳳門の、西に位置します・・・

文政四年(1821年)藤堂藩十代藩主、藤堂高兌が伊賀と大和・山城の領地に住む藩士の子弟を教育するために、津の藩校有造館の支校として建てたもの

創建当時の主たる建物は講堂・講官控所、書庫、寄宿舎、台所等でその後、武道場や兵学寮などが建てられた

建物の一部は嘉永七年(1854年)に大地震(安政の伊賀地震)で大破し、その後、武道場は取り壊された・・と!

明治以降は小学校や私立図書館として使用されてきたとあります・・

以下の建物は当時の姿のままです・・・

・・講堂・・文政四年(1821年)棟札、創建当時のまま・・
・・御成門
・・玄関棟
・・北控所
・・書庫
・・表門


御門から入りましょう・・・・
創建当時の建築で、門柱、門塀、柱型出格子などの木部はすべてベンガラの朱塗りで、赤門とよばれ、親しまれていると・・・

表門を敷地内よりみる・・・入館料を収めると・・・
案内されたのは、案内ビデオを見る部屋・・表門の右の部分、引戸を開けて・・
自分で、スタートボタンを押して・・はい、勉強で~す・・(*^_^*)

玄関棟・・・
この崇廣堂の建物には、三つの玄関入口があります・・・
写真下、右の玄関は大玄関で、教師の通用口であり、講官控室があります・・
左の入口は下働きの者の入口で台所へとなっています・
大玄関・・・

御成玄関・・・藩主の玄関
・・・この玄関から講堂の西廊下を経て北控所で休息したと云われています・・・
御成玄関からみる、御成門への形の異なる石が敷かれた道・・・いい雰囲気です!
御成門・・・内側からみる・・
・・藩主臨校の際に使用される門、はじめは東道路に面していたが、明治29年に移築・・、

講堂・・・

崇廣堂の扁額は、米沢藩主、上杉治憲(鷹山)の筆・・文政四年十月八日と上杉家御年譜に記述があると・・・
・・・生徒は三つの階段より、入ったと・・・
文政四年(1821年)の棟札があり、創建当時の建物である、入母屋造りで、七間四面の大建築であり四方からの採光を得るため独立して建てられ、四方の庇は高く、その軒先は短く押さえられています・・・
講堂内部・・

講堂からみる、有恒寮・・・

この建物は嘉永七年の大地震後の安政二年(1855年)に今の東土塀の中央付近に「思斎舎」として建てられたもの
講堂への出席は十六歳以上とされていたので九歳から十五歳までの年少子弟の学寮として使用されていました
現在、部屋に掲げている「有恒寮」の扁額は当時のものです

「有恒寮」からみた・・・講堂・・
採光を得るため独立して建てられ、四方の庇は高く、その軒先は短く押さえられています・・・
旧崇廣堂の西の部分は、現在、小学校です
御成門・・・明治以降、使用されませんでしたと・・・・

広間型講堂が遺っているのは・・・
日本最古の庶民学校、岡山藩立の学校として開かれた、閑谷学校・・ここ、旧崇廣堂しか、ありません・・と!

閑谷学校の「国宝の講堂」はそれは、すばらしいものですが、ここ、旧崇廣堂の講堂も、すばらしいものですね!
閑谷学校も、今も学び舎として、旧崇廣堂も、施設として、申請すれば多目的にて、利用できると・・

よき、藩校を見させていただきました・・・

さぁ、伊賀上野の街をさらに散策しましょう・・・・(*^_^*)











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