臨済宗の寺である・・・萬松山、慧日寺とあります
「P」につくと、ずらっと、並んだ、五棟の国登録文化財の説明板
丹波市では、慧日寺の方丈(本堂)など5棟がこのほど国の有形文化財に登録されました。国登録有形文化財は市内4カ所目で、寺社建造物では初めてとなります。
有形文化財に登録された5棟は・・・ 方丈 (本殿):木造平屋、 茅葺、 江戸時代後期庫裏、経蔵:木造2階、 桟瓦葺、 江戸時代後期鐘楼:木造2階、 桧皮葺、 慶応三年 裏門:木造平屋、 銅板葺、 江戸時代後期 いずれも江戸中期~後期に建てられいます 方丈と庫裏は茅葺きの大屋根が約200年にわたって維持されています ・・・丹波市観光協会より引用 |
写真左下:順路 山門へ
写真右下:多分通れないと思うのですが、裏門への道
・・・すてきな、参道です
八百姫の髪が埋められているそうです
八百姫とは、この寺の開山の徳峯禅師の弟子で、若狭小浜の高橋長舎の娘として生まれるが、幼いとき人魚の肉を食べて以来、娘の若さのまま、八百歳まで生きたという伝説があるそうですが・・・いやいや、恐ろしいや! |
慧日寺略縁起
永和元年(1375)特峯玅竒によって開創され、七堂伽藍他山内の塔頭十八ヶ寺に及ぶ丹波禅寺の中心として栄えました。 開基は細川頼之・賴元親子である・・・その後、天正三年、明智光秀の丹波攻めや度重なる火災のため、創建当時の面影を失い、現存の仏殿(県指定文化財)は元禄年間(17世紀末)方丈・鐘楼等は18世紀末に再建されたものです。 |
山門案内板
山門は桁行14.25尺、梁間11尺の四脚門で、切妻造、桟瓦葺で東面して建つ、親柱、控柱とも円柱で木製礎盤の上に建つ 屋根瓦の獅子口に文政十九年(1826年)の篦書がその時代と該当すると思われる |
山門
山門をくぐると、そこには、仏殿が・・・
石積みの基壇に建つ桁行一間、梁間一間、一重裳階付、檜皮葺の建物で、元禄十五年(1702年)三月に再建上棟された 身舎の組物は禅宗様式三手先の詰組で、二軒扇垂木としている 扉は桟唐戸でその左右には花頭窓がついている |
方丈・・・茅葺葺き替え中
江戸時代後期の茅葺入母屋造りで、南側に仏殿へ連絡する吹放しの廊橋がつく・・・
軒は一軒疎垂木小舞竹、妻飾りは、木練格子・破風板・拝み懸魚を備える
お見事・・・蜂の巣、巣、巣、巣、巣・・大から小へと並んでいますね・・・ああ、恐ろしい光景です
禅寺の木板?・・・なんて、云ったかなぁ? 確か、木板・・・ですよね!
庫裏、寺務所
入母屋造、妻入、茅葺の大型な庫裏・・・
軒はせがい造り、 一軒疎垂木、妻飾りは、木練格子・破風板を備える
安永二年(1773年)~寛永七年(1854年)の間に建てられたものと推測する
鐘楼
袴腰付で、入母屋造、桧皮葺で乱石積基壇上に南面して建つ
腰組は二手先で、雲紋彫付の桁支輪を備えている・・・高欄は擬宝珠付の組高欄
建立年代は、棟札より、元治元年(1864年)から作り始めて慶応三年(1867年)明治元年(1867年)上棟供養されたとある
経蔵
土蔵で、一部二階建て、切妻造、桟瓦葺
寺蔵文書によれば、文政八年(1825年)一切経を買い求めており、寛永七年(1630)の境内絵図にも描かれている
山門前から境内を望む・・・茅葺き大屋根の存在がお見事である・・・
帰途、山門前の水の流れのごとくの緑もみじ、そして竹林、色目変わって、杉・・・好きですね!
「P」へ向かういます・・・参道! 杉並木
右手に宝篋印塔が・・・苔むして、よく、わかりません
おっと、大失敗です・・・
五棟の 国登録文化財の内、裏門の写真を忘れました
写真下は、「P」から見た庫裡です・・・その手前にかすかに写っています
薬医門で、切妻造、銅板葺で東面して建っている
親柱は短形、前後の控え柱は方柱で、ともに礎石上に建つ
柱に文化三年(1806年)の札が打ち付けられている・・・
方丈、庫裡の見事な茅葺き屋根・・・200年も持続するのも大変でしたでしょうが、これからも維持が大変でしょうね・・・檀家が多ければ、いいのですが・・・余計な心配ですかね!
最近、お寺、伺うと、雰囲気を見ながら・・・ふと、考えてしまいますね!
この慧日寺、「P」も拝観料を無料・・・堂内が拝観できるようにして、拝観料をとったらいいのに・・・僅かでしょうが足しにはなると思いますけど・・・私感!
それだけ、雰囲気のいい、素敵なお寺です・・・
ヒメボタルが群生しているとのこと・・・嘸かし、静かな古刹もヒメボタルを求めて、夜は賑わうことでしょうね!・・・そうか、ヒメボタルの時期は7月か・・・(*^_^*)
参拝日:7月14日
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