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2013年10月24日

遷都の地…大津を旅する…近江大津宮錦織遺跡!

今回の主たる目的地、近江大津宮錦織遺跡!

住所、滋賀県大津市錦織一、二丁目しか、ありません
ググってみました…しかしよく解りません

大津観光協会に電話で聞きました
出てこられた方……しばし、お待ち下さいって!
多分、詳しくないかも……で、答え、滋賀県大津市錦織二丁目八
ありがとうございました

「カーナビ君」に設定、走ります……すぐ、近くです

県道47号線を大津に向かいます
交通量もやや、多く、徐行も出来ず、場所を通りすぎてしまいました
そして、駐車するところもなく……
仕方なく、路地に入り、嫁を「α君」にて、待機させ……

平凡な、おっちゃん、一人で、近江大津宮錦織遺跡へ……
歩くこと、僅かなところ……やっと、発見しました

赤枠が、 近江大津宮錦織遺跡です

赤丸が近江大津宮錦織遺跡ですが、これでは通りすぎてしまいますよ
大きく表示看板作って下さい
Googleストリートビュー引用

藤原宮跡、伝飛鳥板蓋宮跡と……明日香を訪ねて参りました
そして、近江大津宮錦織遺跡です!

なぜ、近江大津宮錦織遺跡が、ひっそり、普通の公園みたいな状態なのか!
なにか、寂しいね……古代のロマンの地がこれでは!!


これを紐解くには、三井寺のホームページに書かれています
どこよりもわかりやすく、なるほど思う、記述、説明です……ほんと!

 天智2年(663)、日本は百済(くだら)を救援するため朝鮮半島へ出兵した。しかし、日本軍は白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍 に大敗し、日本はいつ唐軍に攻められるかという緊迫した状況を迎える。
こうした東アジアの情勢の下、天智6年(667)、天智天皇によって飛鳥から近江へ の遷都が行なわれます……大津京の誕生である。

それは、その相手の新羅・唐連合軍の侵攻に備え、九州、瀬戸内海に多くの山城を築き防衛線をはりますが、 一方、瀬戸内海からの侵略ルートでは飛鳥(奈良)は ひとたまりもないと考えた中大兄皇子(天智天皇)は内陸部の大津に都を移して国家の防衛を固めようとしたのです。

昭和49年、大津市錦織地区に大規模な堀立柱建物跡が発掘されました
そして、大津京成立と同時期に建てられたと思われる古寺四ヶ寺の遺構も発掘されたと!
都を取り囲むように、北から穴太廃寺、崇福寺、南滋賀廃寺、そして園城寺(三井寺)である。
……園城寺(三井寺)の名が出てくる……

壬申の乱の以降、遷都以前の農村的状況に戻ったとのこと。
大津宮の守り神的存在だった、四ヶ寺も、園城寺以外は跡形もなく消滅、その原因も不明である。
崇福寺(滋賀寺)にあった天智天皇の念持仏、十一面観音立像は、今も園城寺で手厚く祀られ、 天智・天武・持統の三帝の産湯に用いられた境内に湧き出る「御井の霊泉(みいのれいせん)」は世の移り変わりを今も静かに見守っている。
……「十一面観音立像」「御井の霊泉」これは先ほど、園城寺にて拝見させていただきました……

し かし、天智10年(671)、天智天皇が崩御すると、翌年大友皇子と大海人皇子との間で壬申の乱が起こり、乱後再び飛鳥へと遷都される。大津京はわずか5 年余りの都であった。

国家としての礎を築いた天智天皇・・神話と史実が交錯し、謎は一千数百年前の地中に埋まる、古代史の夢とロマンをかきたたせる、近江大津京の謎は尽きないのです。

以上……三井寺のホームページ歴史散歩より、一部引用させていただきました

ただ、今日、訪れた園城寺が、大津宮の守り神であった……とあり
受付のおばさんが話ししていた、園城寺は天智天皇の荘園……の、お話!
多少違う気はしますが、寺院の皆さんが、同じ気持ちで、歴史ロマンを、守っているってことは、よく、分かりました……

参考: 「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。(Wikipedia引用)

近江大津京……でも、もう少し、遺跡として、整備、形良く、残せないものかね?
京阪電鉄近江神宮前駅のすぐ西方にありますが、周りは住宅地、道路もそんな広くないし、車、バスで訪れるのも、困るかもね
近江神社に車駐めて、行けば……とか?  怒られるかなぁ?
日本の大きな、流れの一つの舞台と、なったのだからと、思うのです…が!

古代史の夢とロマンの眠る、近江大津京の史跡を後にし、最後、石山寺へ、参ります!!



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