興福寺、薬師寺、元興寺、・・そして、なぜか、唐招提寺を巡ります・・・一日、四寺院です・・がんばります!!!!
2回目は、元興寺・・所在地を、Googleマップで、見ていると・・・
ストリートビュ・・・なんと、寺領内まで・・いや、凄いね!
本来なら、なら街並を散策しながら、そんな遠い距離ではないのですが・・・「α君」で移動です
まず、驚いたのが・・駐車場が無料・・・奈良で、それも、国宝建造物で・・ありがたや!
元興寺・・・がんこうじ・・と、読みます
見たところ、・・ここが、南都七大寺?・・こじんまりとした雰囲気なんです!
「α君」を停め、入館料をお支払いし、くぐった門が、重要文化財、東門・・・
これは、応永年間に東大寺西南院四脚門を移建したことが記録にあり、鎌倉時代風の立派な門です
その東門から、「はぎの花」が近々満開になるであろう・・緑に囲まれて・・極楽堂が・・
この極楽堂-曼荼羅堂・・国宝である
僧坊の一室(極楽坊)の身舎部を内陣とし、東妻を正面として前面向拝とした鎌倉時代新和様の堂々たる建造物であると・・・!
その極楽堂に入り、目についたのが、柱・・、その柱の2本が四面透明アクリル板で囲まれているのです
当然、カメラ不可・・・よく、観察すると、なにやら文字が刻まれています・・しかし、読めません!
元興寺略史を、よく読むと、嘉応三年1171年・・慈経極楽房念仏講に水田を寄進す(文永年間に至る間の八通の寄進文を本堂柱に刻す)とあります
絶対、これや・・と、確信?して・・拝観いたしました・・・
そして、お隣に位置する、国宝、禅室-僧房は、開放されておらず、外から眺めてました
僧侶が起居し、学修した官大寺僧坊の遺構で、建築様式としては鎌倉時代、構造材は奈良時代以前の古材を多く再利用されているとのこと! |
そして、第一収納庫が開放されており、その宝庫に・・・国宝、五重小塔が・・
資料によると、当時の西小塔堂の本尊、西塔そのもとされ、今に遺る奈良時代最盛期の唯一の五重塔として有名とのこと 画像:その資料から、デジカメで、パチリ・・です |
拝観が終わり、ふと、嫁が、花の手入れをされている女性の方に・・・「あれは、はぎの花ですよね?」って・・
その方・・優しくご説明・・「そうです、9月20日ぐらいが、見所ですね!」「彼岸花も咲いていますよ!」と・・
平凡な、おっちゃんも・・ここの沢山の石碑(お墓)は・・との問いに・・
これは供養塔です・・お骨はありません・・このお寺は、お寺のご近所の方々で守られておりますと・・その言葉に、なんの疑いもなく、頷きました
その説明と、話し方から、ほんと、優しさが溢れておりました・・
いつも思うのですが、仕事とはいえ、大寺院の受付・・無愛想・・「よう、お参りを」・・ぐらい言ってよ・・ね!
世界遺産やから、人々の数は並大抵な数字じゃないことは、分かるけど・・・ね!
余計にこの女性の方が優しく、ありがたく・・・感じた次第です・・はい!
元興寺は・・前身である法興寺で地名によって飛鳥寺とも言われる寺です。
百済の国王はこの日本最初の仏寺建立を援けるために仏舎利を献じたのをはじめ、僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を派遣してきました
そのときの瓦博士が造った日本最初の瓦は、その後この寺が奈良の現在地に移った際も運び移されて現在の本堂・禅室の屋根に今も数千枚が使用されています
特に重なりあった丸瓦の葺き方は行基葺きともいわれて有名です
解体修理の結果、使用可能な古瓦(飛鳥時代からの瓦)を集めて使用していることがわかっています
極楽堂西南隅、禅室南東隅には古代の軒平瓦が残っているのです
赤丸の部分が古代の軒平瓦、とのことです
そしてこの歴史ある寺も、明治維新の回禄により門流が途絶え、無住化しました
しかし、昭和十七年より真言律宗大本山宝山寺の実質支配となり中興されることになりました
そして、戦後の文化財保護法や宗教法人等の制定によって復興されました
やはり、興福寺と同じとは言えませんが、それより歴史が古く、飛鳥時代、百済王とかの名称が出てきます
寺領は壮大なものであったようです
この寺院のホームページには、元興寺電子画像集があり、元興寺極楽坊縁起絵巻と元興寺智光曼荼羅 厨子本がFlashで鮮やかに我々に見させてもらえます
これが、素晴らしいです・・・近赤外撮影画像もあり、ほんと、珍しい画像と思います!
この備忘録を記するに、パンフ、ホームページ、参照させていただきました・・
・・・ありがとうございました・・・m(_ _)m
ふと、時計を見ると、昼食タイムはとっくに過ぎ・・ご飯食べようって・・はい!
では、昼食後、次なる目的地・・・そう、あの鑑真和上の唐招提寺へ・・・・続きます!
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