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2024年7月21日

大阪府豊能郡能勢町地黄399、野間神社です

野間の大けやき、ケヤキの地内に「蟻無神社」があります


その「蟻無神社」は明治四十五年当社祭神は野間神社に合祀され、以後、神木の保全・境内の清浄化に蟻無会-(前身は蟻無講中)をはじめ、郷民こぞって奉仕してきたところである。
と、説明板に記されている


と、いうことで、野間神社を参拝いたします
野間の大ケヤキからわずかな距離
いまはバイパスとして国道477号が走るが、旧道に面して鳥居が建っています
郷社 野間神社の石標もあります


柱に「萬治元(1658)」の文字が読める

社頭

   柱には、元禄の年号が読める

野間社の社号表
元文元年(一七三六)「野間社」の社号標が建てられた

野間神社

当社は、地黄字森畑に鎮座する『延喜式』内の神社である。『延喜式』 神名帳 能勢郡の条に、「野間神社」とある。
当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の十三年(六〇五) 九月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭し たと記されている。 また、「能勢郡神社仏閣由来」には、天喜二甲午年(一〇五四)に同所より遷座がなされたと記されている。つまり今の奈良県天理市の石上神宮の分霊を布留道(布留大明神が当地へ遷座の時通った道) 「大原越え」を通り、「地黄長者七郎屋敷江移ス、地黄布留大明神ト号ス」とあり、古くは社号を「布留宮」、「布留社」、「布留大明神」と呼んでいた。
祭神は、「饒速日命」、「宇賀御魂神」、「菅原道真」、「草野姫命」、「野見宿祢」となっている。 「饒速日命」は物部 氏の祖神で、前記の石上神宮は物部氏の氏神であること、今一つには、大化前代より当地域に蟠踞していた野間の 連は、「物部金連公、野間連等の祖」とあり、この地域一帯は、物部氏の勢力下にあって、しかもその一族の影響力の強い野間氏の氏神だった可能性がある。
野見宿祢は、土器をつくって朝廷に献上した氏族で、その宿弥を祭神としているのは、雄略天皇期、能勢より土 器を献上したという日本書紀の記述に結びつき、土師氏の祖として祭祀されたと考えられる。
社記によれば、当社の鎮座する地域を「地黄」と呼ぶのは、前記石上神宮より分霊と共に、この地に同道した人々が持ち来たり、産出した薬草「地黄草」の名に因んだものだといわれている。平安時代の承和年中(八三四~四八)より、当地は朝廷典薬寮領の地黄御薗として、薬草の貢献が行われた。
さらに平安時代の長暦元年(一〇三七)、能勢採銅所の設置により、布留社 (野間神社)は、同採銅所の鎮守社と なり、採銅所権預 (奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになった。
その後、能勢氏の居城とあいまって、天正年間(一五七三~九二) 織田信澄、また隣接の塩川氏との抗争の繰り返しで、社殿をはじめ城下は度重なる兵火に見舞われ、天正十六年(一五八ハ)より能勢氏伝来の領地は島津氏の領有となった。
天正十九年(一五九一) 九月領主島津義弘は、前領主能勢頼次等の願望を聞き入れ、頼次を本願人として社殿を再建した。この時の棟札を『東郷村誌』にみると、各村々の人数は合て千四百七拾九人となり、当時の人口動静また氏子数など貴重な資料といえよう。
その後能勢氏は、関ヶ原の役の功により旧領が復帰し、領主頼次の帰郷に際しては、当社の社庭に領民ことごとくが集まり、三日三晩祝杯をあげたと伝えている。
以後、領主能勢氏の尊崇は厚く、万治年間(一六五八~六一)に拝殿・大鳥居を造立、
元文元年(一七三六)には社殿の改築がなされ、また同年に並河誠所によって「野間社」の社号標も鳥居の右側に建立された。
明治四十年には、領内最寄りの神社九社が当社に合祀された。
祭事としては、古来より毎年十二月に行われる「御召し替え」(御霊代である玉の包み替え)をはじめ、特に十月秋の大祭には、近勢揃いの地車 、郷稀な「だんじり」「しし舞い」でにぎわう豪勢な祭りがとり行われている。
平成十五年三月 能勢町教育委員会

手書きの由緒

       鳥居を入り、境内を眺める

前出の鳥居と同時の万治年間(一六五八~六一)に拝殿・大鳥居を造立された

布留大明神

本殿

      拝殿前から鳥居を眺める

社務所

手水舎



常夜灯

お! トンボが!

  改めて由緒を読めば・・・
当社は、地黄字森畑に鎮座する『延喜式』内の神社である。『延喜式』 神名帳 能勢郡の条に、「野間神社」とある。
当社の創祀を旧記にみると、推古天皇の十三年(六〇五) 九月、大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭し たと記されている

歴史のある神社であることがわかる
そして、平安時代の長暦元年(一〇三七)、能勢採銅所の設置により、布留社 (野間神社)は、同採銅所の鎮守社となり、採銅所権預 (奉行)の佐伯氏が神主となって祭事を務めていたことが、最近の調査によって明らかになったともある

能勢氏の領地だったことから・・・
たしか、能勢妙見山日蓮宗を神社・寺院・領民を改宗させたとも読んだんことがある

現能勢町・・・今更ながら歴史的に興味のある地域ですね









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