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2024年6月28日

令和の大改修を終えリニューアルオープンした岡山城(烏城)・・・前編

2012年10月 12年前に岡山・後楽園に来たことがあります
その時は、旭川を挟んで、岡山城天守を眺めただけでした
今回は、岡山城天守がリニュアールされたと知り、出かけてみました

日本100名城のひとつである岡山城(烏城)の漆黒の天守が見事、2022年11月3日に令和の大改修を終えリニューアルオープンしたと!
そして、 岡山市出身の歴史学者・磯田道史氏による展示監修とのことです

楽しみです
入り口は大手門の側にある「P」にα君を停めて城内を歩きます



天守入場の際、入手のパンフの地図です(表示順序が違いますが・・・)


目安橋(上地図左隅)
大手(表口)から本丸へ通じるで橋で、池田光政の代に、橋のたもとに領民からの投書を受け付けるための目安箱が置かれたことからこの名がつきました

橋は明治になって撤去され土橋に改められました

橋を渡り、城内へ・・・

立派な鏡石です

上にいくほど反り返る・・・大納戸櫓の石垣

関ヶ原合戦後に、小早川秀秋が築き、池田家が大幅に改修したとみられる石垣です。
加工をあまり施さない自然石を用いていますが、上にいくほど傾斜が強くなるのが特徴です。上に建っていた大納戸橋は、4階建てで天守に次ぐ大きさを誇りました。 


宇喜多時代の高石垣に接する・・・不明門下の石垣

関ヶ原合戦後、小早川時代か、その直後の池田家が 城主となった頃に築かれたと思われます。中ほどの一部は天保9年(1838)に崩れて修理されています。

右に接する宇喜多秀家時代の高石垣は、露出した岩盤に角を乗せ、まるで踏ん張っているかのような佇 いです。



なぜ閉ざされた・・・不明門(あかずのもん)

本段に上がる入口として防備を高めた大型の城門です。本段には藩主が暮らす御殿(江戸城で いう大奥)があり、限られた人しか入れませんでし た。江戸時代、藩主の移動は天守近くにあった渡り 下で行われたといいます。よってこの門は普段閉ざされ、不明門の名があります。
前は明治時代に取 り壊されましたが、昭 和41年(1966)に外観 が再現されました

本段にきました

天守の礎石です
本段北端の天守台に建っていた天守は、昭和20年(1945)6月29日の空襲で焼け落ち、柱を支えていた礎石だけが残った。昭和41年(1966)にコンクリートの模擬天守を建てた時に、天守台内部を刳り抜いて地下室を設ける事になったため、礎石は本段の南寄りに移築された。礎石どうしの位置関係はほぼ元の通りに並べられている。赤く焼けた石は、空襲の生き証人でもある。


天守です


美しいですね、そして運良く誰もいない一枚が撮れました
豊臣秀吉の家臣で豊臣五大老の一人・宇喜多秀家が築城した城
めずらしい不等辺五角形をした三層六階建ての天守は威厳のある佇まいで、黒い下見板張りの外観から、別名「烏城(うじょう)」と呼ばれています
最上階からは眼下に旭川を望み、岡山後楽園と市街地を360度見渡せます
築城当時の天守は1945(昭和20)年の空襲で焼失しましたが、現在は再建されています
・・・岡山市観光案内より引用


青空に光輝く、金の鯱
リニューアルされた後なので、実に美しい


城内に入ります
B1Fから6F 最上階までエレベーターで上がり、階を降りながらという順路のようです

最上階の姿

花頭窓

天守最上階より金の鯱
旭川の奥の緑は「後楽園」

特別名勝 岡山後楽園を天守最上階から望む
沢の池、左に寒翠細響軒がみえますね

鯱 少々斜めの角度でパチリ

岡山開府の祖 宇喜多直家

ビデオが上映されていましたので、じっくり拝見しました

木製揚羽蝶紋掛飾




鎧の揚羽蝶

閑谷学校を続けて欲しい・・・池田光政遺言状

お気に入りの閑谷学校が今なお、代々守り続けられている原点かもしれませんね
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2024/06/784.html



 ということで、岡山城の前編はここまで・・・
2022年11月3日に令和の大改修を終えリニューアルオープンした岡山城(烏城)の漆黒の天守
いや~ お見事でした!













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