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2023年12月25日

四国、お城巡りの旅 現存十二天守「松山城」 登城です

いよいよ、愛媛県松山市に入りました
大州城から、松山市へ・・・渋滞に巻き込まれ、到着も遅めでしたが、無事宿にチェックイン!

松山城へは、朝一、イヨデンに乗って向かいます
路面電車、楽しみです
市内電車、一律@200円です
乗り方、降り方を事前に宿の方に聞いて、挑みます(笑)
だって、公共電車、バス、乗ったことがないのですから・・・


配置図
大街道駅で降ります
平日のため、通勤、通学で乗客一杯で、ぎゅうぎゅう詰め!

歩くこと、5分?で、松山城ロープウェイ乗り場到着
朝一ですが、観光客の多いこと!
ヨーロッパ、イタリア?スペイン?系の方々の団体が・・・
しかし、女性の香水の匂いのすごいこと!


松山城沿革

松山城は、標高132mの勝山山頂に本丸、西山麓に二ノ丸(二之丸史跡庭園)や三之丸(堀之内)を置く連郭式平山城で、本丸の中枢てある本壇には連立式大守がそびえる、広大な域構えてある。
創立者は、賤ヶ岳の七本槍の一人としても有名な加藤嘉明。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでの成功を認められて20万石となった嘉明は、居城を正木城(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある勝山に移し、この地を「松山」と命名した。着工から25年、寛永4年は(1627)松山城の完成を目前にして嘉明して会津へ転封となる。代わって人封したのは蒲生氏郷の係・蒲生忠知。二之丸を完成させたが、同11年8月、参動交代の中の京静て病没し、嗣子なく断絶した。寬水12年(1635)7月、伊勢桑名城主・松平定行が伊予松山15万石に封じられた。定行は寛永16年から3年をかけて本壇を改築し三重の達立式天守を築造した。天明4年(1784)9代定国のとき天守が落第で焼失、すぐに復興許可は下りたものの、財政難などにより工事は難航し、12代勝善の寛永5年(1852)にようやく竣工、安政元年(1854)落成式典が盛大に行われた。現在の天守はこのときのもので、幕末に造られたにもかかわらす創建時の挑山文化様式が見事に再現されている。明治維新後は、公園として整備・活用された。昭和に入って放火や戦災により櫓など一部が焼失したが、昭和41年(1966)から全国にも例を見ない総木造による再建か進められ、現在は重要文化財21棟を含む51棟が建ち並び、往事の姿を取り戻している。



松山城目指して、出発です
切符は、往復券がありますが、片道券を購入です
じつは、帰路は黒門口登城道を歩いて下りたいと思っています故!

ロープウェイと、リフトがあります
もちろん、ロープウェイを利用します

長者ヶ平へ到着です
人、多くて写真どころでは、ありません
みんな立ち止まって記念撮影・・・急ぎ、先に行きます

中門跡から・・・

石垣は、松山を特徴づける構造物の一つで、中でも「登り石垣」は、全国で最大規模を誇ります。石材には、主に花崗岩が使用され、隅部はほとんどが算木積です。丸を囲む高石垣は、高さ10mを越え、美しい曲線を描く扇勾配と、屈折を連続させることで防御性を高めた屏風折が特徴です。江戸時代に改修を受けている部分もありますが、北を中心に、加藤嘉明による築城時「慶長7年(1602年~)」の典型的な石垣が良く残されています。その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打込ハギの乱積みです
一方、本壇の石垣は、北側と南側で異なっています。北側は、時期はわかりませんが、打込ハギの布積で、隙間に合わせて加工された間詰石が詰め込まれている特徴がみられよす。南佩は、北側より新しく、嘉永年間(1848~1854)、天守などが再建された際に、新しく積みなおされ、十分に手間をかけた切込ハギの布積で、隙間のない整った外観となっています。


太鼓櫓

戸無門(重要文化財)
戸無門は、大手入口に現存する高麗門。当初から門扉がないので戸無門と呼ばれる。敵を筒井門へ誘い込むため戦略的な意味合いで設置したとみられる。


戸無門を抜けると、この眺望が広がります

朝一の空は、実にきれいです

筒井門西続櫓(登録有形文化財)
筒井門は、正木城から移築されたとされる本丸最大の門。大手の固めを構成する重要な櫓門で、城内で最も重要かっ堅固な防衛線


筒井門西続櫓を城内から

太鼓櫓(復興建造物)
太鼓櫓
太鼓櫓は、本丸の西南隅に配置された矩折のニ重櫓です。この櫓は、巽櫓・鼓門・同西塀と同じ高さ(約7m) の石垣の上に築造されており、これらは一連の防衛線となっています。築城時に建てられたものと考えられ、明治時代に石落や突揚戸などが改変されました。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。同 46年(1971年)に西面の石垣が解体修理されたあと、同48年(1973年)3月に総て栂で復元されました。なお、古絵図には、太鼓櫓前に本九広場の警備の番所が記されています


よき眺めです
手前から、馬具櫓、少し隠れていますが、天守、小天守、南隅櫓、少し離れて、乾門、乾櫓


現存十二天守、松山城天守です
右から、二の門櫓☆、その左が一の門東塀☆、一の門南櫓☆、奥が天守☆、その左が小天守*、さらに左が多門櫓*  ☆(重要文化財)*(登録有形文化財)です


券売所です

  じつは、数十年前、友人達とここまでは来たことがあります
そう、確か桜が咲いていましたね(?)
しかし、その連中は、城には興味がないのか、そう、私自身が今のように細部までみる趣味ではなかったのですが、皆で、引き返えしました
そんな思い出も蘇ってきました

いよいよ、これから、城内に入ります

続きます



追記:記事中文言は、配布パンフ、案内板板より引用いたしました











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