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2023年12月21日

四国、お城巡りの旅 現存十二天守「宇和島城」

ついにやってきました
現存十二天守「宇和島城」です
四国の最西部?に位置するこのお城
我が地よりは、なかなか簡単に来れません
まして、高知城から国道197号を走ってきました、129km、2時間40分

到着です

城山東北側の登城口 長屋門
市指定有形文化財 藩老桑折氏武家長屋門
家老桑折氏の武家長屋門。戦後の復興事業に伴う道路拡張に伴って撤去せざるを得なくなり、桑折家より市が譲渡され現在の位置に移転。建築年代は不明で、元禄(一七〇三)年以後の屋敷替えとなった際に改造されたともけたゆき推測しています。元は間口長さが35mもありましたが 、移転時に門番等の居住空間であった左室を撤去、約半分となっています
。窓の増設や馬屋だった右室も居住部屋に改築されていますが、宇和島城下で唯一現存している武家長屋門として貴重な建造物です。


現存12天守の1つがそびえ立つ宇和島城は、慶長20(1615)年に伊達政宗の長男、秀宗が入城後、明治を迎えるまで"南海の伊達" 9代の居城でした。国が定める「重要文化財(建造物)」に指定されている天守は、宇和島伊達家2代藩主の宗利が寛文6 (1666)年頃に建築したものです。かって同所には、築城の名手としてとうどうたかとら有名な藤堂高虎が慶長6 (1601)年に建築した天守があり、幕府には修理の名目で届出をしましたが、天守台の石垣を含めて宗利により全面的に建て直されたため、その姿は絵図でしかうかがい知ることができません。
宗利は天守のほかに櫓や門なども改修しましたが、堀や石垣などの縄張は高虎のものをほぼ引き継いでいます。堀については、幕府隠密が五角形を四角形と見誤って報告した史実から、高虎の巧みな縄張として語られることとなる”空角の経始"の話が生まれました。明治以降、堀は全て埋められましたが、その名残は今の道路に見ることができます。石垣については、高虎から伊達家によるものまで新旧さまざまな石垣が残されています。これらの縄張がほぼ当時の姿をとどめており、城全体も国史跡として指定されています。


さぁ、石段を登りましょう

寛文大改修の石垣

長門丸石垣

この石垣は17世紀後半頃に築かれたものと推測していますが、その特徴は角の部分によく表れています。鑿できれいに整形された長方形の石材を、交互に向きを変えながら積み上げていく「算木積み」と呼ばれる技法で築かれています。伊達家2代藩主宗利による寛文 4 年( 1664 )から寛文11年(1671)にかけての大改修のものと考えています。

匠の覚
書角の部分を隅角部、間の部分を築石部と呼びます。さらに隅角部は角石と角脇石に、築石部は大きな石材の築石とその間を詰める間詰石に分けられます。これらの石の大きさ・形・加工や配分の度合いなどの特徴を見極めながら、年代を推測します。




藤堂高虎創建期の石垣群
高さ:9m~13m
勾配:4寸5分~5寸勾配(約24~26度)
石材:砂岩 ◎宇和島ではよく採れる石です。

藤兵衛丸周辺にある石垣は、江戸時代に修理はされていながらも、いずれも藤堂高虎の創建時期となる慶長6年(1601)頃の古い石垣の特徴をとどめています。絵図の(1)の石垣は、城内では2番目の高さとなる約13mの高石垣で、無加工の自然石を用いて、高虎が手がけた石垣の特徴とされている反り(そり)をもたない直線的な勾配で積み上げられています。この石垣が普請された当時では、国内屈指の高さだったとも言われています。
 そして絵図の(2)の石垣は城内最古と考えているものです。規格性に乏しい自然石材が用いられ、多くの間詰石が使われています。隅角部は、石材の長短を交互に積み上げていく『算木(さんぎ)積み』技法の中でも、短面が内側に入り込む『痩せ角(やせすみ)』と呼ばれる古い技法です。これらは、慶長よりも古い文禄年間(1590年代)に見られる特徴で、高虎創建より遡る可能性があります

城内では天守をはじめ、もっとも多くの建築物が備え付けられた郭となります。石垣も幕末頃に「切込ハギ」で修理された部分と元々の「野面積み」の部分が同じ面で一度に見ることができます


本丸石垣
この石垣は、同じ面で2つの積み方の違いが明確に見て取れます。①の左上半部は、网角部は鑿加工石材を用いる「切込ハギ」、築石部は玄翁加工石材を用いる「打込ハギ」で、間詰石はあまり使わず、隙間なく組み合わせて積み上げられています。また网角部は石材の長さを交互にしながら積む「算木積み」が徹底されていません。②の右下半分は自然石材をもちいた「野面積み」です。これらの特徴から②は 17世紀初頭ごろに築かれ、①は幕末ごろに修理されたものと考えられます。

二の丸
天守の建つ本丸の最終衛施設としてその直前に置かれた郭で帯曲輪と連結して本丸を取り囲むように配置されています。本丸までには物形門(一 の門)、二の門、三の門を通らなくてはたどりつけませんでした


本丸
・桜の時期は美しいでしょうね

史跡宇和島城 本丸跡
・面積:約 3600㎡
・標高:約 74m
・石垣:長さ約 270m 
・高さ:10m 
・建築物:天守・御大所・櫛形門・北角矢倉・南角矢倉櫛形門矢倉・御鉄砲矢倉・御休息矢倉・御弓矢倉轆轤矢倉・石髪矢倉・厠・土塀

城内では天守をはじめ、もっとも多くの建築物が備え付けられた郭となります。2006 年の発掘調査によって、そのほとんどの建築物の跡を確認することが出来ました。また、建築物跡にそって、雨水を排水する石樋も確認することが出来ました。確認できた石樋は、阿蘇溶結凝灰岩という阿蘇山周辺でしか採れない特殊な石材を採用した溝で、ほかの郭では見られない精巧な造りでした。またそれらの溝を上手く連結して雨水を集水、会所桝や暗渠に引き込んで排水する仕組みを作り上げていました。


現存天守


入ってみましょう
・天守雛形
現在の天守は寛文6(1666)年頃に完成しましたが、万延元(1860)年に大規模な修理を行っています。この天守雛形はその修理に際して作られたことが天守1階の繋ぎ梁に打ち付けられている木札に記されています。非常に精巧に作られており、単純な大きさだけでなく柱の太さに至るまで1/10スケールで作られています。天守などの雛形が残るところは他にも見られますが、宇和島城では天守・雛形ともに江戸時代のものが残り、かつ雛形の制作年代がはっきりとしている点で非常に珍しく、貴重なものとなっています


最上層へ



        最上層よりの眺望
        二の丸跡と、その先は宇和湾です

宇和湾、リアス式海岸

右:伊達政宗 左:伊達宗利 甲冑

少し斜め右から
・軒唐破風、千鳥破風、唐破風が美しい

お名残惜しいが、下山します

本来なら、この石段を下りて来るのが正道なれど、ちと、きついので迂回!

         伊達宗利築 寛文天守
配布パンフより引用


現存十二天守の一つ、「宇和島城」を拝見いたしました
昔のままの石段を上がるか、上りやすい坂道を上がるか、そして下りは井戸丸の石段を下りるかです、やはり石段でしょうが、急で、坂道を選択しました

丸亀城の石垣も見事ですが、藤堂高虎が一番最初に城造りをした「宇和島城」その石垣もお見事でした

できることなら、また、来たいものです
素晴らしかったです


番外:登城口の手前のお食事処の前に・・・「殿使いの井戸」がありました
宇和島城三之丸御殿は、築城の名手藤堂高虎が創建し字和島藩祖で仙台藩祖伊達政宗の長男にあたる伊達秀宗が将軍秀忠より伏見城千畳御殿を拝領、改築したといわれています
幕末には取壊され、明治には堀も埋ら立てられ市街地化進み、今現在、当時の面影をし のばせものを目にする事は出来ません。そのような中で、当店には「三之丸御殿の井戸」と伝わる井戸がございます。私共の間では、想像力たくましく、宇和島伊達家に数意を込め、「殿使の井戸」として大切に守ってまいりました。新店輔とした機会に、多くの方々にこの井戸を知っていただきたく、歴史感じるような「涼」をお届けしようと、この井戸を利用「手水」を設けさせていただました。登城後の汗などを拭いつつ、昔に思いをはせてなどのいただければ、井戸の守り手とし ては大変幸せに存じます。ご自由にお使いくださいませ。ただ、飲用に御遠慮栁慮ください
平成ニ九年十ニ月一心


追記:記事中文言は、配布パンフ、案内板、宇和島市広報より引用いたしました









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