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2019年12月9日

日本三妙見但馬妙見 日光院・・・ 兵庫県養父市八鹿町石原450

2016年、紅葉巡りの際、拝見した、樹齢600年の大イチョウの黄金の絨毯が記憶に・・・
ちと、時期が遅いかなぁと、思いつつ、大イチョウの黄金の絨毯を拝見、やってきました





拝殿の屋根にイチョウの黄色い葉が見えます ↓

お! 大イチョウの葉は落葉し、黄金の絨毯です ↓

妙見大菩薩 ↓

妙見宮・・・
「妙見宮」と題する扁額は慈性法親王の寄進によるもの
これは妙見大菩薩の霊場である日光院を「妙見宮」と称したためと、あります ↓


拝殿前より、黄金の絨毯を・・・陽の影と黄色が、実に美しいです ↓


      樹齢600年の大イチョウ・・・裸になっていました ↓

拝殿前から薬師堂の屋根を・・・↓

       構図を考えて、パチリです ↓

薬師堂 ↓

諸病悉除の薬師如来等を祭る往昔帝釋寺一山十ヶ坊の総本山にして七間四面なりしが
日光院が山上に移ったので、享保四年(1719)に四分の一に縮小して再建し現在に至る ↓




但馬妙見 日光院 ご案内

当院は、飛鳥時代(人皇三十代敏建天皇・西暦572年)日光慶重がここに一寺築いたことに始まります。霊符縁起によりますと、但馬国・石原妙見は、肥後国・八代妙見、下総国・相馬妙見と共に日本三妙見の一つとされます。御本尊は妙見大菩薩で、非常に霊験あらたかな仏様です。 そして、北斗七星と同体とされるのが故に寺紋は「七曜紋」となっています。 太古より万物の運勢と天体の動きの間には密接な関係があると考えられてきました。北の空で、一年を通じて観ることが出来る北斗七星、つまり妙見大菩薩は星宿の中の帝王とされ 万物の運勢を司る仏様として信仰されてきました。
農業にあっては五穀豊穣、商売にあっては商売繁盛など、あらゆる事に対して「開運厄除」のご利益がある仏様です。
戦国時代には、特に武門将士の信仰を集め、山名宗全も、ここ日光院で戦勝祈願をしました。それらの古文書は「日光院文書」と呼ばれ、中世の歴史を伝える貴重な資料として、県指定重要文化財となっています。
天正年間、羽柴秀吉の山陰攻めの兵火にあい、寺門一時衰微しましたが、寛永九年には、ここから西方五十丁の妙見中腹に移転復興し、三代家光公より、三十石のご朱印地を賜りました 。 叉、寛文五年には出雲大社の御造営に際し、本殿の御用材に日光院の妙見杉をお譲りしたお礼に、出雲大社より日光院に三重塔を譲り受けました。 そして、妙見全山を伽藍とする壮大な妙見信仰の一大霊場として繁栄を極めました。
明治になり廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、妙見信仰の弾圧が始まりました。 明治九年七月八日、ついに「寺号を廃して、不動産のみ名草神社にせよ」という布達にて再びこの地の末寺成就院と合流し、今日に至っております。 つまり寛文九年から明治九年まで(245年間)の日光院の建物に、新たに名草神社が入り、お寺の建物がそのまま神社とされたのです。 そこが日光院であったが故に、仏教の象徴である三重塔が名草神社の境内に存在しているのです。
幾多の困難な時代を乗り越え、妙見大菩薩のご加護と、檀信徒の信心により妙見信仰の法灯を護持し、今なお宗教、宗派をこえて開運厄除のお寺として、多くの信仰を集めているのです。
高野山真言宗 妙見山 日光院 第五十二世 山主


山門の「七曜紋」 ↓

よき眺めです ↓

「P」の側の宝物館の壁に・・・↓


平成27年現在 日光院と出雲大社350年のご縁・・・出雲大社の公式見解です
・・・出雲大社の三重塔 日光院に移築し国宝に・・・

市指定文化財 妙見三重塔由来記 ↓

2015年の備忘録での記事に記しましたが、日光院のホームページによると・・・
世に示されている史実は、偽りの情報が示されていると・・・
三重塔は、誰から、誰に・・・出雲大社から日光院が、出雲大社から妙見社へ
この妙見社は、名草神社ではない、史実のすり替えとのこと
但馬妙見日光院の歴史そのものがいつのまにか、名草神社の歴史にすり替えられている・・・と、記されています

その答えでしょうか?
平成27年現在 日光院と出雲大社350年のご縁・・・出雲大社の公式見解です
・・・出雲大社の三重塔 日光院に移築し国宝に・・・
と、市指定文化財 妙見三重塔由来記に記されているようです

一件落着ですかね・・・

見事な黄金の絨毯でした
しかし、掃除が大変でしょう

本殿・・・中井権次一統の世界は、次のページで・・・





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