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2019年6月13日

明日香の地を巡っています・・・聖徳太子誕生所、橘寺です

聖徳太子誕生所、橘寺・・・ 奈良県高市郡明日香村橘532

川原寺跡の南、県道155号線沿いには、 聖徳皇太子御誕生所 石碑と、お地蔵さんがいる
奥に見えるのが、聖徳太子誕生所、橘寺です


       聖徳皇太子御誕生所 石碑


西門から入りました

関連年表

本堂(太子堂)

太子堂内、撮影禁止です

・・・橘寺の創建と変遷・・・

当寺は、聖徳太子様のお生まれになった所で、当時ここには、橘の宮という欽明天皇の別宮があった。
太子は、その第四子の橘豊日命(後の三一代用明天皇)と穴穂部間人皇女を父母とされて、西暦572年この地にお生れになり幼名を強厩腰戸皇子、豊聡耳皇子などと申し上げた。太子は大変深く仏法をご信仰になり、自ら仏典の講義をされ注釈を加えられたのが三経義疏で、現在も保存されている。
三三代推古天皇一四年秋七月(西暦606)に、天皇の仰せにより勝鬘経を三日間にわたりご講讃になった。その時、大きな蓮の花が庭に一mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子委の冠から日月星の光が輝き(三光石)不思議な出来事が起こったので、天皇は驚かれこの地にお寺を建てるよう太子に命ぜられた。そこで御殿を改造して造られたのが橘樹寺で、聖徳太子建立七ヵ大寺の一つに数えられた
当初は東西八丁(870m)南北六丁(650m)の寺地に、金堂、講堂、五重塔を始め六六棟の堂舎が建ち並んでいた。
天武天皇九年(西暦681)尼房失火の為十房焼いた記録があり(日本書紀)、当時尼寺であったのか。光明皇后より丈六の釈迦三尊、淳和天皇が薬師三尊をご寄贈になり、不断法華転読及び法華八講が修法せしめられた。
法隆寺の金堂日記の中に「橘寺より小仏四九体、承暦二年(西暦1078)十月八日迎え奉った」と記されており、玉虫厨子を移したのもこのころか。近衛天皇久安四年(西暦一一四八)五月十五日雷火のため五重塔焼失。六十年後鎌倉時代文治年間三重塔再建、「元興寺より四方仏を迎え奉った」などの記録あり。
後柏原天皇永正三年(西暦1506)、多武峯の兵により焼かれ全く昔日の面影を無くしてしまい、江戸時代には正堂、念仏堂共に大破し僧舎一棟のみと記されている。
現在の堂は、元治元年(西暦1864)多くの人々の力により再建実現したものである。
昔は法相宗であったが、江戸中期より天台宗になり比叡山延暦寺の直末で仏頭山上宮皇院橘寺、別名菩提寺とも言われている・・・配布案内書より引用



観音堂

阿弥陀堂

往生院

往生院の天井絵

五重の塔跡 飛鳥時代には百二十数尺(約40m)の五重の塔が建っていた

三光石・・・太子委の冠から日月星の光が輝やいたと・・・
阿字池‥・梵字あを形取り、聖徳太子が作られた伝えられている

二面石

飛鳥時代の石造物の一つで、太子殿の左横にあり、人の心の善悪二相を表したものといわれている。
・・・われわれの心の持ち方を表したものと・・・

左悪面

右善面

二面石のささやき

二面石のささやき・・・果たして、己の今の心の持ちようは、いかに?
・・・悪か善か?・・・





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