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2019年2月26日

岡太神社・・・兵庫県西宮市小松南町二丁目2-8

兵庫県西宮市小松南町2-2-8に鎮座する岡太神社を訪ねます

武庫郡の式内社の論社となっている。鳴尾地域では最古の神社である
社格は、延喜式内社、旧県社 別名:岡司宮(おかしの宮)

江戸中期の西宮付近の地図に見られます(下、赤丸)



・・・寛延元年摂津国名所大絵図による・・・

この地図は、今からおよそ250年前の西宮南部で、村落が増えて現在の主要地がほぼみられます。また、京からの西国街道と大阪からの中国道も西宮で合流しています。
西宮の町は西国街道沿いの交通要地に発展した広田・西宮神社前の市場町として鎌倉時代から知られていました。
室町時代には「西宮の旨酒」としてすでに京まで聞こえた酒造業は、江戸時代に入ると目ざましい発展をとげ、西宮・今津両港は江戸積み樽廻船でにぎわいました。
「広田神社の前」の意味で御前浜と呼ばれていた西宮浜は、古代から漁業で知られていましたが、江戸時代に入っても鯛・白魚などのほか鰯漁が盛んでした。この鰯を干したものが干鰯で、武庫川両岸の村々などで、盛んに栽培された棉や菜種(油の原料)の肥料として重要でした。棉や菜種を作る田園風景は明治時代初めに見られなくなりましたが、この地図の農村集落は昭和初期まで変わることなく続きました


岡太神社社頭

      石標

延喜式内 岡太神社略記

祭神 天御中主大神
天の真中に坐して、世の中の宇斯たる神と申す意なり。
天の初発の時、高天原に生りませる神にして神道における根本神祇なり。
相殿 高皇産靈神 素盞嗚神 稻田姫神 大己貴神 蘇民將来

由緒
伝に曰く宇多天皇寛平五年(853)武庫郡広田の人岡司氏此地を開発して浜村といい延喜元年天御中主神を主神に広田の大神五柱を末社として共に鎮座せしを起源とし由って岡司美也と称す。
合祀神五柱は、元上の宮と称して本社の北に当たる人家の間にありしを明治5年合祀せるなり。
明治六年八月村社に列し、同十二年四月県社となる。



石鳥居・・・寛永二(1624)と刻まれている

恵比須大神と静止像

西宮神社に御鎮座の恵比須大神は武庫の沖から御来臨になり最初、鳴尾でお祀りしていたとの口碑かあります。小松では、その大神が毎年正月9日の夕に押照営(岡太神社)で高潮や洪水等の災害を未然に静止(防止)して五穀豊穣をもたらす猪(静止)打神事をされると伝えられこの神事の妨げにならぬよう斎籠をする風習がありました。これは静止を猪にかけたもので、「猪」は大神の伎使わしめと云われています。
当社では摂社に大神をお祀りし昔語を後せに伝えるよすがとして彫刻家柏木秀峰作の静止像(亥)を設置しています



   社殿


恵美須社 ・・・ 社殿左奥に鎮座。祭神:恵美須大神



岡太社の石標

この碑は、江戸中期の碩儒並河誠所が有志と、社殿の廃滅や祭神の由緒などの誤り伝えられていた延喜式所載の摂津国の古社二十社につき踏査考定して、正しい社名を明らかにするため、時の寺社奉行大岡越前守忠相に上申し元文元年(1736)から翌年にかけて建立した碑石の一つです。
表面に神名帳に記載の社名、側面に村名、裏面台石に同志菅広房(山口伊兵衛)の名が刻されています。





白山大神の由緒

天正十年(1582)反逆者・明智光秀の部将・四方天但馬守は、備中の戦陣より急遽引き返した秀吉を三軒家で乱戦して組み敷き、くわえた刀で撃とうとしたが不覚にも歯が欠けて刀をとり落とし、後を追ってきた加藤清正に誅されました
但馬守は無念で、これからは歯の悪い人をなおしてやろうと言い残したと風説があります
この話は白山大神と但馬守との付会です
白山大神は、和と結び・禳災の神ですが、当地では白山さん、はくさ(歯瘡)さんと転訛し、北向きの歯神さんとして周知されています


伝、小松内大臣平重盛の供養塔

手水舎

北西からみる社殿・・・(木々で見えないですが・・)


別名:おかしの宮の標柱(上、写真)
この地域も、阪神淡路大震災の被害は大きかったと聞いています
阪神淡路大震災で社殿倒壊、再建されたとあります・・・非常に立派な社殿でした





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