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2019年1月14日

尼崎寺町七福神めぐり・・・本興寺・・兵庫県尼崎市開明町3-13

尼崎寺町七福神めぐり・・・尼崎市、寺町の中心的寺院・・・本興寺です
尼崎寺町七福神めぐりも、最後の七福神となります

山門

本堂

桁行五間、梁間六間。入母屋造り本瓦葺き。周囲に緑をめぐらし、東西十間、南北八間
文政五年(1822)に類焼。同十年四月一日再建



法華宗四大本山の一つで、応永27年(1420)日隆上人の開基した寺院。
開山堂・三光堂・方丈は室町・桃山時代のすぐれた建造物として国の重要文化財に指定されています。
開山堂の日隆上人坐像(重要文化財)は、生存中に堺の仏工浄伝に命じて作らせたと伝えられています


重要文化財 三光堂



もとは大物浦にあったものを元和六年(1620)現地にうつしたもので、拝殿は慶長ニ年(1597)豊臣秀吉、加藤清正の再建である。三光堂というのは、三光天子、鬼子母神、日本大小の神祇等の、法華経信徒守護の善神を祀る故名づけられた。
細部の手法甚だ巧みで、ことに草花彫刻をはめた蟇股や木鼻の絵様彫刻、欄間の透刻などは桃山時代の面目が躍動している。
その他の装飾にも、随所に精妙な毛彫を施した金具をはじめ、局彩色を施すなど善美をつくしている。
昭和27年、文部省によって解体修理、昭和60年に彩色の補修が行われた

拝殿



残念ながら、三光堂、社殿を見つけられなかった・・・再訪予定である


尼崎寺町七福神めぐり・・・財宝繁栄の福宝 大黒天
・・・法華宗 本門流大本山 寺町の中心的寺院・・・

             財宝繁栄の福宝 大黒天


祖師堂

宗祖日蓮大聖人の御尊像を奉安、脇座に両山歴代日登(三世)、日与(六世)、日諦(十一世)、日承(十二世)、日尭(十三世)、日○(十五世)、日庸(十八世)の各上人の木像が祀られている。文政五年(1822)に消失したが嘉永六年(1852)八十三世日量上人によって再建された・・




鐘楼・・・兵庫県指定重要文化財

桁行三間、梁行二間、入母屋造、本瓦葺の袴腰つき鐘楼で、東面中央に片引きの出入口を設けています。
上層では、腰長押と内法長押の間に連子窓を入れ、唐様木鼻つきの頭貫および台輪を納めて、和様二手先拳鼻つきの斗供をあげています。 中備は撥形の蓑束を配し、四隅では尾垂木を入れ、隅木との間に繰型の多い手挟みを飾っています。二軒 繁垂木、妻飾り叉首組、拝みに猪目懸魚をうつ。下層では、堅板張目板打ちの裾広がりの袴腰をつくり、上端に台輪をすえ、和様二手先斗供で目透かし板張りの縁をうけ、刎高欄をおき、中備には蓑束を飾る。この鐘楼は、「両山暦譜」によれば、寛永10年(1633)に竣工しており、古材の再利用や後世の修理も加わっていますが、本興寺では開山堂・三光堂・方丈に次いで古い建物です・・・尼崎市より


重要文化財 開山堂

この開山堂は、彫像として重要文化財である御開山日隆聖人の尊像を奉安し、文明元年(1469)の創建である。
構造は撞木造で、正面を入母屋造とし、前方に軒唐破風、後方に切り妻屋根を突出し、二重扇垂木の変化に富んだ形態である。
天井の龍画、桁行の鳳凰の彫刻は精巧を極め、その装飾の華麗なることは、当時の仏寺建築に於ける室内装飾の粋である。
建物の中央部は室町時代の光彩を遺し、その前後は桃山時代及び徳川時代初期の特徴を発揮している。
日隆聖人を崇敬し知慧を磨き、眼病を癒するため祈る人今もって旺んである。
昭和三十八年文化庁によって解体修理せられた。


天井の龍画、桁行の鳳凰の彫刻


方丈・・・国指定重要文化財

本堂の北側に位置し、桁行十間、梁間七間、入母屋造り、本瓦葺の建物で、前面に一間半の広縁(半間はのちに拡張)、東側に一間の広縁がめぐっています。
建立年代は天文17年(1544)の棟札が残されていることから元和に移築されたのではないかといわれていましたが、昭和56年の解体修理の調査で軸部に解体した形跡がないことが確認され、元和3年(1617)この地に移転した際の建築であることが棟札の存在とともに明らかになりました。
保存されている天文十三年の棟札はおそらく移転前に存在した建物のものと思われ、移転時に持ってきたものであろうと考えられています。
 平成7年1月17日の阪神・淡路大震災では大きな被害を受け半解体修理を行いました

三重宝塔・霊廟壇

尼崎寺町七福神めぐり、全て巡って詣りました
尼崎城築城の際に整備された寺町寺院、そして神社・・・なかなか見応えがありました
もうすぐ、春になれば、尼崎復元天主も一般公開され、さらに賑わうことでしょう・・・

その時は、また、のんびり散策いたしたいと思います・・・




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