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2018年1月31日

伊能忠敬、笹山領測量の道‥篠山市大沢

大沢八幡神社の鳥居の前に、「伊能忠敬この道を歩く」を、発見

以前記しましたが、国道179号線沿い、JR草野駅付近にも、ありましたね
2016年5月11日 伊能忠敬、笹山領測量の道…兵庫県篠山市草野字横道ノ坪
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2016/05/blog-post_8.html


伊能忠敬この道を歩く~


伊能忠敬は1804年から17年間かけて、全国を測量して、大日本島興地全図を完成させ、日本の歴史上初めて国土の 正確な姿を明らかにしました
伊能忠敬の測量隊は、前後2回にわたって丹波に足を踏み入れました
味間地区に入ったのは、1814年(文化11年)九州第二次測量の帰路のことです
測量日記には「これより大阪街道仕越し」と記されています
「仕越し」とは、時間的余裕が生じ、精度を高めるための予定以上の測量のことです
                            ・・・案内板より引用、一部省略


「右きよ水、左なれあい(宮津橋立の成相山のこと)」と、刻ざまれているようです?
・・・判別が難しい‥(>_<)

 
     伊能忠敬笹山領測量の道

文化十一年(1814)二月四日晴れ後曇
伊能忠敬測量隊十名は、百三十一人の労役村民を従えて北野新村から大阪街道を南下し、一ノ瀬川に架けられた仮橋 二十一間を渡り、古佐村に入る…と、刻まれている



左の方一ノ瀬川向こうに丹波少将屋敷跡あり 味間村の皆川を渡り、新村の立場、大沢村に入り、大阪・笹山街道の 分岐点に丸に山印杭を打ち込み測量を終える。同所で昼食後、無測で北野新村まで引き帰り止宿した。夜は天体観測 …と、刻まれている


この石碑がある場所は、大沢八幡神社鳥居前です


寛政十二年(1800)第一次測量、蝦夷地から始まり、その時56歳 
文化十三年(1816)第十次測量、江戸府内で終わる その時72歳
74歳で死去するも、喪を秘して地図製作を続行、
文政十四年(1821)『大日本沿海輿地全図』完成、三ヶ月後喪を公表とある…Wikipediaより引用

ホント、凄いことを成し遂げたのですね…m(_ _)m







2018年1月30日

大沢八幡神社‥篠山市大沢70

篠山市大沢70、大沢八幡神社…先人曰く、社殿、彫刻は新井一門とある
一の鳥居‥国道176号線から一筋山手側に、位置するが、社殿は奥の山の麓…

大スギが迎えてくれました‥写真では、その大きさは分かりづらいが、右横の手水舎で比べると、巨木であることが分かる‥
境内

大沢八幡神社
延喜式神名帳にある二村神社(身内村東山下)は、室町時代の文明年間までは、酒井、味間、宮田の三庄 の「産神」であり、大沢庄もこの中に含まれていた。
文明十四年九月九日(1492)二村神社の神事の日、氏子座席の上下を巡って争が起こり、結果、氏子 がそれぞれ祭器等を持ち帰った。
御神体を真南条が、神輿を味間村が、獅子と六点の祭器を板井村が持ち帰り社を建てて祀ったが、この時、大沢村も鎮護神「正八満宮」を奉迎し、社を建て氏神としたのが 大沢八幡神社の由来とされている
旧来より武門、武将、国造、国司、藩主の崇敬が厚く今も、開運満足、厄除削除、商売繁盛、事業繁栄、社運隆盛、心願成就、良縁成就、身体健全、進学成就、学業増進の願い事に御利益がある。

宝物 神社偏額 
八幡宮の御額字は「是は篠山城主松平紀伊信峯殿弟聖護院内庄恵院晃珍僧正、明和六年八月十八日染筆、大沢村杉本八郎辺衛請儒ここに納むる」の記載がある(1769)
                                …案内板より引用

拝殿

神額‥
…「是は篠山城主松平紀伊信峯殿弟聖護院内庄恵院晃珍僧正、明和六年八月十八日染筆、大沢村杉本八郎辺衛請儒ここに納むる」の記載がある(1769)‥とある

妻飾り‥新井一門ではなさそうですね
恐らく、御神木だったのでしょう…見事?な切り株
その右に、神輿庫が…

二体の神輿が納められています
         石灯籠‥享保八年(1723)と読める

由緒書の隣の案内板は…大沢ロマンの森、大沢城跡の説明…

由緒に記されている争いごとに出てくる、二村神社(味間南)は…
2015年3月5日に参拝しましたね
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2015/03/blog-post.html
二村神社(味間南)、再訪してみようかなぁ?

…氏子座席の上下を巡って争が起こり‥と、あるが、やはり、現在でも、座席の上下の関係は、ちゃんとありますからね…若者もわかりますよね?‥(^^;)



2018年1月29日

川内多々奴比神社‥兵庫県篠山市下板井74

式内、川内多々奴比神社・・・兵庫県篠山市下板井74を訪ねます

明月神社近への道すがら、発見? 参拝しなければ・・・と!
縁起
崇神天皇の御代四道将軍丹波道主命、この地に野陣を張り賊徒征伐に苦慮されたとき、白髪の翁が現れ玉剣を授け、その加護により平定することができたので朝廷に言上し、勅命によりここに宮地を営んだのが当社の縁起であります。 名称の川内は当地を川内郷といい、神楯を奉仕する斎部の楯縫氏が祖神を祀ったので川内多多奴比神社といいます。 天智天皇二年九月九日勅命により祭祀を執り行ったのが祭礼の初めで、天武天皇白鳳元年9月9日国司により造営され、氏子中二十社の総社で平生は一宮と呼んでいる。
                             ・・・案内板より引用



本殿・・・三間社流造 檜皮葺



         獅子の子落とし
         鯉の滝登り
向拝‥刻銘は発見できず!



境内に丹波森協会剪定樹木‥垂乳根の公孫樹
樹齢千年ともいわれ、幹や太い枝から気根が垂れ下がり、古来、垂乳根・乳の木とも言われ育児や長寿祈願のご神木として信仰を集めています。またイチョウの大樹には数十種もの宿り木が繁茂し、イチョウの葉の中には生きた化石ともいわれる漏斗状のラッパイチョウの原始葉も見られ、学術的にも注目されています・・・案内板より引用

         樹高:20m 幹周:7m

頼光駒止めの樫
正暦元年(990年)に大江山の鬼退治で有名な源頼光が神社に立ち寄った際に、太刀一振を奉納して必勝祈願をしました
伝説の、駒止めの樫は老木のため、昭和38年の豪雪で枯れましたが、現在直系の樫が育っています。太刀は神社の宝物となっています・・・案内板より引用

彫刻の作者の刻銘は、発見できず!
この近隣の神社は川内多々奴比神社この管理されているようですね・・・






2018年1月27日

明月神社‥新井弥三郎正次の彫物です‥篠山市小坂1125

篠山市小坂1125 明月神社、新井弥三郎正次の彫物を巡っています
県道289線を北上・・写真下、中央より左奥の山に小坂城があったと‥正面が明月神社!
明月神社です
社頭から

開月神社
後鳥羽天皇文治四年(1188)の創立にして古来より明月大明神または単に明神様と称す
延宝四年正月社殿を再建し、明治六年十月村社に列せられる
神社後方は絶壁状の岩山で、一瞬の地盤沈下で裂かれた岩が鏡のようになったことから断層鏡肌と呼ばれるものです
裂かれた岩の片側は神社の下にあると云われています


本殿
神額 ‥ピンボケ‥m(_ _)m

向拝

                左脇障子
                右脇障子


蟇股

手挟み
木鼻


神社後方、絶壁状の岩山・・・
一瞬の地盤沈下で裂かれた岩が鏡のようになったことから断層鏡肌と呼ばれるもの

鏡肌と云われる断層に写った月を見て、明月となったのでしょうか?
ロマンですね・・・

新井弥三郎正次の刻銘が、脇障子にあったのですが、写真がありません‥う~ん?
再訪やね・・・