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2018年10月20日

青谿書院・・・兵庫県養父市八鹿町宿南101-3

兵庫県養父市の公式サイトに紹介されている・・まちの文化財を訪ねます

養父市 まちの文化財(28) 青谿書院と池田草庵・・・
兵庫県養父市八鹿町宿南101-3、 青谿書院・・・県指定文化財でもあります

この道は、兵庫県養父市八鹿町青山82、大蔵神社への道でもあります
奥に見える高架は、北近畿豊岡自動車道・・・


全景です

石段を上がります



県指定文化財  青谿書院

青谿書院は但馬聖人といわれう池田草庵の私塾で、草庵が35歳の弘化四年(1847)から明治十一年(1878)まで開講していた。建物は二階建ての茅葺で、一階の山側奥の六帖間が草庵の居室で、二つの八帖間は客室と講堂を兼ねていた。草庵は、朱子学と陽明学を融合させた「慎独」を重んじた学問を教え、ここで66歳の生涯を閉じている。
関東から九州に及ぶ各地からの門弟673人が学び、その中には北垣国道(京都府知事)、久保田譲(文部大臣)、浜尾新(第2代東京帝大総長・文部大臣)などの多くの人材を輩出している
・・・案内板より引用


書院・・・

養父市八鹿町に青渓中学校があります。この青渓中学校の青渓という名称は青谿書院に由来しています・・・公式サイトより


玄関戸・・・見学できると案内にあったので・・・
・・・開くかなぁ?と、思い、引き戸を開けますと、開きました

縁側のガラス戸も開きました


奥の間が、草庵の居室



但馬聖人・池田草庵

文化十年(1813)に養父市八鹿町宿南の農家に生まれた草庵は、10歳で母を12歳で父を亡くし、広谷村の満福寺に入山して修行をはじめました。その後、18歳で寺を出て、京都の相馬塾に入門。1年足らずで塾頭になった草庵は、30歳にして帰郷し「青谿書院」を開塾。66歳で亡くなるまで、多くの門人を教育しました・・・養父市公式サイトより引用


門人使用の便所ご覧くださいと・・・

便所の戸を開くと・・・
  「十時消灯後戸にローソクを立てて学びに熱中したこげ跡が残っている」・・と

その説明どうり、無数のこげ跡が、凄いですね・・・
しかし、現代の便所とは大違い、所謂ドボンです・・その便所の中で、よく、勉強されましたね
  


樅の木・・・弘化四年書院開塾の記念樹

・・・残念なことに伐採されていました・・・
切り口から最近ですね! 今年の嵐で、倒れたかもしれません(私感)


青谿書院記文碑
・・・・明治十三年先生の三年祭に門人一同が建立した・・と



西側から


石段を上がって正面は物置・・書院と物置は茅葺だったと!


養父市ふれあいバス・・・

何歳になっても、学ぶことはたくさんあります
・・・・日々、これ勉強です・・・頑張ります




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