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2018年8月10日

気多神社・・中井権次一統の足跡を巡って・・兵庫県豊岡市日高町上郷227

中井権次一統の足跡を巡っています

兵庫県豊岡市日高町上郷227、気多神社です
中井権次下絵展にて、気多神社、向拝の龍の下絵が展示されておりました
中井権次一統の作品集には「気多神社」の名は、記載されておらず、新発見?でした

総社気多大明神とも称される神社で、式内社、但馬国総社として崇敬された古社です

「P」側の鳥居


気多神社(由緒)

鎮座地 兵庫県城崎郡日高町上郷字金堀二二七
大古山陰地方は「大国主神」の支配地で、命は但馬や播磨 では「葦原志許乎命」と称されていた。 新羅国の王子「天日槍」が山陰海岸に渡来し、「葦原志許乎 命」と支配地の争いになったが、和解の結果、志爾嵩山頂から 両社三本ずつの矢を射て支配地を決めることとなった。 天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許乎命の 放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。 そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許乎命は 新たに建立された「養父神社」「気多神社」に「大己貴命」 (おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(播磨風土記)
 国司文書によれば気多神社は神武天皇九年(前六五一)に 気立(気多)の丘に創建されたと記されている。
大化の改新後は国府地区に但馬国府が創立され、気多神社は 「総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郡一社の 「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造 りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂。鐘楼、朱塗 り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻 により灰燼に帰した。
現社殿は延宝五年(1677)の再建であり、大正十二年に 大修築を行い現在に到っている。
現存する鰐口は応永三十二年 (1425)の作で町文化財に指定されている。明治三年気多 神社と社名を改め、明治六年郷社に列せられた。
境内社には、八坂神社、須賀神社、八幡神社、稲荷神社、愛宕神社等が祭られている。
                                ・・・石碑より引用


社頭

正面から社殿をみる

拝殿

拝殿内

拝殿右手から、本殿を拝見します・・・草生い茂り、足下注意して・・・

向拝

左側に移動して・・・
・・・鳳凰、力神が屋根を支えています

中井権次下絵展 気多神社の龍


この龍ですか・・・見事です

木鼻

木鼻・・・厳しい表情の獅子ですね

手挟み(左)

手挟み(右)

拝殿の木鼻

顎に髭?をたくわえているのか?

本殿左横の狛犬・・・拝殿の隙間から、パチリ!








気多神社鰐口(工芸品) 室町時代、応永三十四年(1427年)銘が記され、町内では進美寺の鰐口につぐ古いものであるを有する鰐口


境内社・・・八坂神社、須賀神社、八幡神社、稲荷神社

社務所

   拝殿前から、鳥居を・・・その先の土手は、国道462号線

      石段を登り、国道462号線へ・・・そこから、見渡す境内

国道462号線・・・豊岡市南方面 右は円山川支流

彫刻、刻銘を探すが、見つからず・・・
大正十二年に 大修築とあるので、九代目、中井権次貞胤か? 
そして、宮津に近いので・・と、簡単に考えてしまいました・・・

本殿周りが、草生い茂り、足下がね・・・そして、周りの木々もあり、薄暗かったですが、なんとか、彫刻は撮影できました
しかし、向拝の鳳凰、力神、木鼻・・・お見事でした













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