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2018年6月5日

式内社、舩井神社・・・京都府南丹市八木町船枝才ノ上51

京都府南丹市八木町船枝才ノ上51、式内社、舩井神社を訪ねます

西から、県道408号線を走り、桂川を渡ると、すぐ、左手に舩井神社の社叢がみえます

社頭・・・鳥居には、貞享三年(1686)と、刻まれている・・・


境内、外回りの除草作業中・・挨拶して、参拝いたします

社殿

舩井神社について

神功皇后の三韓征伐の時、住吉明神に守獲を祈られたところ、住吉明神が現れて御船を守護し、海路つつがなく航海出来た上、三韓征伐も武功したので、凱旋後、神功皇后はこの地に住吉明神(舩井神社)を祀った。(『和名抄』) とある。
ここより北西五百米の地、二十町堰道近くに「オコノモリ」と称える塚ある。「瀛居の社」「太古の森」とも書く。ここは曾て大樹が繁り、舩井神社の前身の住音神社が鎮座していたと伝えられている。
舩井神社の 「舩井」の名称は、大堰川を用材を積んで京へと下る船の停泊地であるという「船居」に由来する。(「舩井神社・・・凡船舶之所謂え船居」『大日本史神祇志』)
旧郡名の 「舩井郡」もこの神社に由求すると言われている。
大堰川の清流近く舟運の守り神として祀られるとともに、船枝村、清谷村、室橋村、美津村、畑中村、諸木村、野条村の産土神でもあった。
大堰川の氾濫により、文武天皇の御宇、慶雲二年(705年)に此の地「鹿野森」へ遷宮と伝える。
仁和三年(880年)大地震のため、社殿崩壊し、安和二年(970年)社殿を営殿す。
その後、崇徳天皇の御宇、保安元年(1120年)丹波国司三条宰相藤原家保卿、南都より春日四鹿の神を勧請してこの社に合祀される。
この頃二首町歩もの田地や山林を所有し、境内も広大なもので、崇敬者は三千余戸あったという。
寛政六年(1794)に拝殿再建される。
本殿は、天保三年(1832年)に焼失、天保六年(1835年)に再建されたものである。
平成十七年(2005年)、遷座千三百年祭典を齋行する・・・由緒書より引用


総欅造り、一間社流造千鳥破風付、向拝に唐破風を設けた、彫刻で飾られた神殿
・・・神紋は、橘・・・唐破風の銅板葺の細工も綺麗ですね・・・


舩井神社祭神

本殿-住吉神(底筒之男・中筒之男・泉筒之男)
   春日神(武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神)


宮司に許可を頂き、神殿内の狛犬を・・・


ピンボケでした・・

向拝・・立派な彫刻です

迫力満点、獅子噛 見上げる龍

木鼻、持送り




              左、脇障子・・・春日神、鹿です


              右、脇障子・・・住吉神、鯉に乗る仙人か?


擬宝珠に・・・天保五年(1834)と刻銘がある

本殿前から拝殿を・・・

奉納絵馬・・・右の絵馬、寶永七年(1710)と読める

奉納、弓・・・

左 甚五郎 作・・・金網に覆われた馬の絵馬

この馬は夜毎に絵馬から抜け出し、近くの池に水を飲みに行っていたが、首に鈴をつけていたので、その昔がやかましくて村の人が困ったそうだ。そこで、みんなで相談して、馬が抜け出きないように 彫刻に網をはることにした。それからは、馬が夜中に水を飲みに出ることがなくなったので、鈴の音もやみ、静かになったそうだ。


伝承は、意味深いもので、それだけ馬を大事にしたことの現れかも・・・


御神木


鳥居横には、腕守社

腕守社には前九年の役で源頼義・義家親子に討たれた安倍貞任の腕を祀っている。
奥の五輪塔は 「腕(かいな)守」 と呼ばれ、貞任の腕が埋まっているという。
貞任の魂が、自分の体を克に戻そうとすると、青い尾を引いた人魂が東の方へ飛んでいくという。腕の痛みに効くときれ、昔は農作常で腕を痛めた人が、よくお参りに求ていたという。源氏の勢力が強かつた船井郡には怨霊鎮魂を目的としたいくつかの貞任の身体を祀る場所がある。丹波の山並みを縫うようにして、ゆったりと流れる桂川。その中流辺り、京都市右京区京北から南丹市八木町にかけて、桂川の流れに沿うように、はるか奥州の地の豪族、安倍貞任(1019?~62)にまつわる伝説が残っている。
平安時代後期、朝廷は、自分たちから独立した勢力を持っていた奥州の豪族・安倍氏の征討を源頼義らに命じた。十一年間に及ぶ戦い「前九年の役」(1051~62)の未、一族の長だった安倍貞任は「厨川の戦い」で戦死し、安倍氏は滅亡した。
貞任の亡きがらは朝廷に送られ、都の陰陽師の進言により「東西南北に川のある地」 である「有頭の地」(現・京都帝右京区京北下宇津)に埋められた。しかし翌朝、日の出とともに貞任は生き返り、たたりをなした。そこで、体を二分、三分としたが、やはり生き返る。最後は、体を七つに分けて埋め、下宇津八幡宮に貞任の霊を祭り、ようやくたたりは静まったという。亡きがらを七つに切ったところが「切畑」、首を埋めたのが「貞任峠」。ほかにも、両肩と胴体は「高谷」、膿と両足は「人見峠」、足と手を埋めた「足手谷」など、下宇津周辺には貞任伝説にまつわる地名が残る。中でも貞任峠にある「貞任の首塚」は歯痛封じの御利益があるとして、古くから地元で信仰を集めていた。
下宇津から桂川を下ること約20キロ。南丹市八木町にはここ舩井神社のほかにも、頭を埋めた「久留守神社」(同町刑部)は頭痛に効く、などの伝承がある。



宝篋印塔・・・サイズは大きいです


社務所


鳥居前から右手を見る・・・
鳥居前二首米余の桜並木道となっている。染井吉野や幾種の八重桜の樹の下には躑躅が植えられていて四月から五月にかけて、参拝者の日を楽しませてくれる。
かつてはこの参道で流鏑馬や早駆けが行われたのであろう。「馬場」という地名が残っている


次の参拝予定の大送神社があるぞ!

参拝し、彫刻を眺めて、撮影していたら・・・作業用の姿で声をかけてくれた方・・・宮司さんでした
ご親切に、神社の由緒、地域の歴史・・細部までご案内、ご説明までしていただき、そして、各資料まで頂戴いたしました

左右の脇障子の、左甚五郎作の彫物の説明に、安倍貞任の腕神社の由緒を聞き、おおぉ・・と、感心することしかり・・

神社では、宮司さんにお会いすること、お話することは、まずありません
中井権次一統の足跡である、篠山、波々伯部神社の宮司さんに、社殿の内まで、案内いただいたことが思い出されます

そして、社殿の彫物が、中井権次一統の足跡ではないかと、調査されたようです
しかし、残念ながら、中井権次一統ではなかったとのことです
彫物師は不明ですが、作風から播磨の國の彫師ではと・・・

宮司さんから、中井権次一統のお話が出て、中井権次一統にどっぷり浸かっている私にとって、お話しながらやらうれしい気持になりました

そして、安倍貞任・・なんと、安倍総理が・・・安倍貞任・宗任兄弟を輩出した奥州安倍氏の子孫に当たるとのことです!

・・・盛りだくさんのお話に、久しぶりに、よき時を過ごさせていただきました・・・




追記:説明文は、いただいた案内書より、引用いたしました






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